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僕たちは総合的な学習で育ってきた -総合的な学習の時間が必要なわけ その1-

「僕たちは総合的な学習で育ってきたと思うんです」
 中野重人先生に尋ねたら、「おそらく、そうだね」と答えられた。

 もちろん私が小学生、中学生の頃に総合的な学習の時間はありません。
 ただ、日常にそういうことがたくさんあったのです。

 私の子どもが通った小学校は多摩川が近くだったため「多摩川探検」が総合的な学習の時間に位置付いていました。多摩川を通して、環境、地域、いろいろなことを学ぶ学習です。

 それを見ていて感じるのは、私が子どものときにやってきたのと同じだな、ということです。私が子どもの頃には、地元の川で遊ぶ、探検するというのは日常でした。地方の農村でしたので、田んぼだらけです。
今、振り返ってみると、学校の授業で学んだことを、体験を通して総合化したり、体験で身についたことを教科で補強するということはしょっちゅうだったと思います。
 例えば、理科(今なら生活科)でのアサガオやヒマワリの栽培についても、ほとんどの家庭は農家でなくても野菜や花など育ててますから、日光や水が必要なこと、肥料の効果などは知っていました。体験を基に理科を学び、理科の学びを日常に返すということが、普通にあったのです。だから、「僕たちは総合的な学習で育ってきた」と思うのです。

 そうした学びの集大成とも言えるのが、田舎の近所のおじさんたちでした。農業から土木工事、何でもできる人たちでした。私の実家のある地域は、水道を自分たちで作ってしまいました。井戸を掘り、その水を貯めてゴミなどを濾過するタンク設置し、水道管を敷設してと、ほぼ素人が中心になって作ったのです。イメージとしては、TV番組の「DASH村」に出られていた三瓶明雄さんです。そういう人たちが、ゴロゴロしていました。
いわゆる「生きる力」がある人たちです。

 「生きる力」は、平成10年告示の学習指導要領以降で中心となる学力観で、それを育むために総合的な学習の時間が創設されました。
 文部科学省の定義では、

我々はこれからの子供たちに必要となるのは、いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力など自己教育力であり、また、自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心など、豊かな人間性であると考えた。たくましく生きるための健康や体力が不可欠であることは言うまでもない。我々は、こうした資質や能力を、変化の激しいこれからの社会を、[生きる力]と称することとし、知、徳、体、これらをバランスよくはぐくんでいくことが重要であると考えた。

となってます。

 「生きる力」については賛否もあるでしょう。ただ、それぞれ必要かと問われれば、必要と答える人は多いでしょう。
 例えば、「主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力」や「他人とともに協調し、他人を思いやる心」を不要とはいう人はいないと思います。

 ちょうど、この「生きる力」や「総合的な学習」が公表された頃に、大手新聞社の編集委員の方と、これについて話をしました。その編集委員は、「それよりも、各教科で知識を身につける方が重要ではないか」と言われましたので、「では御社で、知識量が多い学生と自ら課題を見つけ、学び、解決しようとする学生のどちらを採用しますか」と尋ねましたら、後者だと言うんです。おそらくどこの会社もそうでしょう。
 大学進学や就職を学校教育の目標とするのには反対ですが、社会の多くは、実は「生きる力」を望んでいるのですね。

 この力を、各教科だけでつけることができれば、総合的な学習は不要ともなります。目賀田八郎先生は、それを社会科でできるから総合はいらないと言われました。それも間違いではありません。
 ただ、中野重人先生は、その目賀田先生に、そこまでの社会科をできる教員はそれほどいない、だから総合的な学習が必要なのだと言われました。
 「総合的な学習」はいらない、という教師も多く見られます。では、目賀田先生のように、総合的な学習がなくても、その力が身につけられるようにできるのでしょうか。総合を不要という教師は、ぜひ、そこを考えて自分の授業を振り返ってみていただきたいと思います。

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