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トークイベントに向けて 【連載2:社会につながるための「きみトリのメガネ」】

前回のトークイベントに向けての 連載2「よい環境」と現状との比較から生まれる葛藤 に続き、2回目をお送りします。

本記事では、イベントで一緒に対談してくださるラーンネット・グローバルスクール(以下ラーンネット)のナビゲータ* 青木芳恵(あおら)さんときみトリの舟之川(聖子)が事前打ち合わせでお話したことを、会話形式でご紹介していきます。
読みながら、当日のイベントを楽しみにしていただければ幸いです。

*ラーンネットでは、子どもの学習を側面支援するという意味で、先生でなくナビゲータと呼んでいます。

連載2: 社会につながるための「きみトリのメガネ」

わたしたちの言う「社会のトリセツ」とは何か。たとえば、自分にとって「友達」とは何か、「怒り」とは何か、「仕事」とは何かなど、社会にあるものを自分の言葉で、主観的に表現したものです。わたしたちがつくりたい15テーマのトリセツを文章の形で書き、『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』という本にまとめました。

▼ページサンプル。販売中の最終稿とは異なります。

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しかし、きみトリの本を使った授業といっても、ラーンネットでは、文章をそのまま使ったわけではありませんでした。「自分のトリセツをつくりながら生きる」という核になる部分を皆さんにシェアしました。
その点について、あおらさんから、「きみトリの良さ」という形でフィードバックをもらいました。

あおらさん:
きみトリという……いまだにわたしはうまく言えないんですけど……本に出てくるいっこいっこが、社会につながるためのメガネなのかなと思うんです。わたし、「メガネをかける」という言い方が好きなんですけど、同じ世界だけど、メガネをかけると違って見える。そういうことがきみトリの良さだと思う。イベント当日もそういう話ができたらいいなぁという気がしてます。

聖子:
きみトリのメガネ。

あおらさん:
たとえばメガネをかけると、妊娠すると、まちを歩いている妊婦さんに自然に目がいく、みたいな感じかなぁ。1学期の「いやだとOKのトリセツ」で言えば、「いやだの中身を見てみよう」というメガネをかけると、「いやだ」の中に自分がいるんだとか、自分と人との間の境界線(バウンダリー)がみえるんだという麻由美さんのシェアから、「いやだ」ということが自分を知る道標になっていた。「いやだ」をつかまえやすくなるというか、「いやだ」が可視化されやすい、「いやだ」がつかみやすくなる。

聖子:
きみトリでやってるのは、自分の中で団子になっている「それ(ある対象)」をいったん引き離して、置いて、観察して、描写してみるということをやってるんですよね。それってなんなのか、自分とどういう関係があるのか、どういうつくりになっているのか、とか。

あおらさん:
トリセツを通じて自分の中に深くもぐり、さらにその自分をメタ認知(自分や他者が何かを認知している状態を、客観的に見つめること)するということですよね。

聖子:
そうそう。

あおらさん:
トリセツは自分と人と社会を見るためのメガネ、そこが最大のよさだと思ってます。しかも、「カード」がたくさん出てくる。それはアップグレードも可能。いっこのカードについてのグラデーションがある。

聖子:
グラデーションっていうのは?

あおらさん:
たとえば3学期で聖子さんがやった鑑賞対話も、中にはすごくいっぱいの要素があるじゃないですか? そのときそのときで、テーブルの上に並べられたカードを自己選択でなんぼでも取れるという感じ。そこがふつうの学びと違うと思うんですよね。いや、ふつうというか……「こういうときにはこうしたらいいよね」という、正解的なものもありますよね。
きみトリの場合は、それとはちょっと違っていて、鑑賞対話という確かな構造があって、確かなカードは存在している、その中のカードのグラデーションが幅が広い。
聖子さんたちが三人ともにその構造とカードをもっている。いっこいっこのテーマに、取捨選択ないっぱいのカードと、大事にしたい本質みたいなものがあって。それを「いろいろ使っていいんだよ」と渡してくれている。
だからみんなでカードの使い方を試して、さらにシェアできる。自由なんだけど、ちゃんと本質があるからブレないっていうことですね。

聖子:
それはマニュアルとかハウツーみたいなものと、どう違うんですか?

あおらさん:
そこが「メガネをかける」という感じがするんですよね。言語化しにくいところなんですけど。1学期で言えば、「いやだは大事な気持ちだよ」ということがまず中央にある。快、不快ということで、自分の境界線(バウンダリー)の形を見る、線を引く。「いやだ」ってなんだろう?が可視化される、何が詰まっているんだろうと、取り出してそれをちゃんと眺められる。ざっくり「いろんな気持ちがあるよね〜」じゃないというか。

聖子:
具体的ということ?

あおらさん:
具体なんだけど、抽象にも持っていけるところがすごいと思ってます。2学期で言えば、感情から掘っていった根っこのところにある本当のニーズをお芋に例える話をしていましたが、「みんなでお芋を味わうのが『聴き合う』っていうことなんだ」という、聴くということの具体性があって、でも表現は抽象。その例えを使いながら、そこにはいろんな声がたくさん詰まっているということをシェアする。その様が色とりどりであって。
渡されたバトンが、そういう非常に具体的で、日常で起こっていることの中で子どもたちがつかみやすかったんですよね。管理でもなく放任でもないというところが、ラーンネットと非常に相性がよかったんだと思います。

聖子:
管理でもなく放任でもない。わかります。わたしが日頃感じている違和感とも通じるな。鑑賞対話(観て話す)は、「批判的に見る」ということをやっているんですよね。特にイメージを読むこと。表象という概念を知ること。それは必要な力なのに、多くの人が学んできていないことかったりして。美術でも「自由に見てね」と、まだまだざっくりしていたり。
あおらさんが言ってくださったように、鑑賞対話(観て話す)にはたしかに本質的なことはある。それはちゃんと伝えたい。その上で「ああかな、こうかな」って感想を話していく。「それがある」と言う責任を引き受けている、なんでもありじゃない。暴力的なものはみんなのためにならないとかは言う。それは有無を言わさず「ダメ」じゃなくて、「なぜならそれは」という理由を、わたしがこうだからと主語で伝えることだったり、みんなにとってどうかというメタな観点を取り入れることで。制限ではないんだけど、なんだろう、共有したい価値があるよね、という感じです。

今回のイベントでも、レクチャーやプレゼンのように「わたしたちはこうです」とプレゼンを聞いてもらいたいのではなく。

あおらさん:
かといって、あまり抽象的に突っ走ってもお客さんがおいてきぼりになる。

聖子:
そうなんです。だからあえて構成的に、この時間はこれをやるというふうにプログラムを区切りました。ワークショップみたいに他の人を入れてやるのも、今回は違うなと思っていて。なんでかというと、今回の機会を生かしながら、一回わたしたちでふりかえって、トリセツをつくる姿を見てもらって、観ている人にそこから何か発見してもらいたいという感じがあるんですよね。そのためには、メンバーを選ぶ必要があって、そこに関係していたわたしたちだけの中で一回ぎゅっとやってみたい。
でも完全にクローズドにするのではなく、リアルタイムでコメントで入ってきてくれる人の刺激を受けつつ、あとから観てくれる人も想定しつつ、セミオープンみたいな感じでやれたらなと思っています。

連載3に続く

この時代を生きる人間同士の学び合いとは 〜ラーンネット・グローバルスクール5,6年生との年間授業から見えてきたもの

2022年4月2日(土)21:00-22:30
Youtubeライブ配信(事前申込み制、1ヶ月アーカイブ限定公開予定)

ラーンネット・グローバルスクールの青木芳恵さんをお迎えし、5, 6年生との授業の中で得た学びについて、きみトリ著者3人と対談します。

○出演:
 青木芳恵さん(ラーンネット・グローバルスクール ナビゲータ)
 稲葉麻由美(『きみトリ』著者, セラピスト)
 高橋ライチ(『きみトリ』著者, カウンセラー)
 舟之川聖子(『きみトリ』著者, ファシリテーター)

○参加費:1,000円
○定員:なし

○当日の流れ(予定)
・書籍『きみトリ』ときみトリプロジェクトの紹介
・ラーンネット・グローバルスクールの紹介
・きみトリ授業のシラバス
・各学期の授業概要と学びのシェア
・学びのシェアに対する感想を手がかりに、4人で対話

○当日のキーワード
 当たり前に人は違う
 可能性に対してひらかれている
 全員が全員で作用し合っている
 自分の内側から人とつながる、社会とつながる
 きみトリは自分と人と社会を見るためのメガネ
 大人と子どもが共に学び合うこと
 管理でもなく、放任でもなく(ナビゲーション)
 大人として、子どもと共に社会をどうつくるか
 大人にしかできないこと、大人だからできること
 外の人間が場に入ることの良さ
 混迷を深める今をどう生きるか
 心をどう保ち、選択をするか
 常に「今ここで起きている」
 成長期の人にかかわれる、恵み
 社会にあるものを自由に使っていい

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