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人の可能性を潰すようなオトナには、絶対になりたくない。

今日は、こんな記事から。

「一番の壁は、英語力でもなんでもない、周りからの理解のなさだった。地方の高校からアメリカの大学に行きたいってなったとき『日本人はいけない』という謎の教え込みが壁になって、それをいちいち説得しないといけない。『海外大学進学者が過去にいた高校だったら絶対にこんなところに時間を食われていないだろうな』といったことがいっぱいあった。私は反対されましたが、何回も何回も説得し続けました」

挑戦したいという小さな芽を、
わざわざオトナが潰すのはなぜなのか?
本当に理解に苦しみますが、そういう人が未だにたくさんいるのも、厳然たる事実で。

大きな夢を掲げてうまくいかなかったときに、周りから白い目で見られるのがかわいそうだから?
できっこないことを夢見て挫折したり絶望したりしてほしくないから?
目指しているものが周りと余りに違いすぎると、集団から浮くから?


確かに、「ビジョンを語ることが憚られる」空気感みたいなやつ、
私も今の場所に来て、実際に何度か感じたことがあります。

とかく堅実であることが求められるというか、
こっちはストレッチした目標、「こういうことできたらいいね!」という長期的な構想のつもりで言ったことが、
さも近いうちに必ず実行するようなことのように受け取られていて、
いつの間にか「また口ばっかり」みたいな言われ方をする、みたいな。

それがさらに、過去にあまり取り組まれていない、
やったことがある人がいない、みたいなことになると、
さらにその傾向には拍車がかかるものです。


周りにそういう道をたどった人がいないから。
前例がないから。
今までそんな挑戦をした人がいなかったから。

前例がなくたって、それはこれからもないという理由にはならないし、
今までいなかったのは、そうできる人がいなかったからとも限らない。

きっと、広い世界を見たい、前例にとらわれずに挑戦したいと思った人の中には、
その可能性を無意識に潰そうとしてくるオトナたちに失望して、
その地を静かに去っていった人も少なからずいると思う。

だけど、そうやって「去っていった」人の存在が可視化されることはない。こうしてまた、「前例がない」という言説が積み重ねられていく。


とはいえ、そんな社会を嘆いていても、何も始まらないのですよね。
他人のことは変えられない。変えられるのは、ただ自分だけ。

誰も言わぬならせめて私が、
誰かの決意を、勇気を、しっかり後押ししてあげられる人になりたい。

「一歩踏み出したいけど、勇気が出ない」
「自分の殻を破るために、何か一つ挑戦してみたい」
そんな人に贈られる
「いいじゃん!やってみなよ!」という一声が、どれだけの力になることか。

私もそういう後押しに何度も助けられたし、
そんな支えがあったから、今の自分がいると確信を持って言える。
だからこそ、その恩を次の世代、今踏み出そうとしている人たちに返していければなあと思います。

……ついつい熱くなってしまいました。
普段憤りみたいな感情が熱源になることってあんまりないんですが、
これに関しては、思うところがめっちゃありますね。
自分の中でも結構中核をなす価値観なのかもしれません。

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