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《曾、桜.》

 お彼岸。着物姿でお参りへ行く日が来るとは思ってもみなかった。

 春分を中心とした一週間を春のお彼岸と呼ぶ。(秋のお彼岸もやはり、秋分を中日とした7日間だ。)昼夜の時間がほぼ等しくなる春分と秋分。太陽が真東からのぼり真西に沈むこの時に、仏の世界と現世が最も近づくとされている。お墓参りを始めとする供養にふさわしい週であるのは、これによりご先祖さまと通じ合えるからだそう。

 
 さて、お墓参りへ行くと決めたお彼岸の日。「お着物にしよう。」とふいに心に浮かんだ。曾祖母のそれを身に纏って、彼女に逢いに行きたくなったのだ。淡雪のふる空のような地に、四季の草花が白で描かれた一枚。衣装持ちだった曾祖母のお着物の中で、唯一わたしの手元にのこったものだった。一年を通して着られる柄な上に、どの帯とも合わせやすい。先日は白い帯と合わせ冬のお出かけにお供してもらい、今回は緑の帯と桜色の帯揚げとともに春の装いとなってくれた。

 
 いつものお参りとはずいぶん違った心地がする。一度も逢ったことのない曾祖母への感謝の気持ちが大きくなっているからだ。彼女のいたおかげで今のわたしがあるのだなと、身をもって感じる。

 いわゆるステイホームのこの数年。家族について考えることがぐっと増えた。とくに曾祖母曾祖父のことを想う時間が。文字通り家にいると、古いアルバムをめくってみたり、箪笥の肥やしになりかけていたものをよみがえらせたりというようなことに、多くの時間を使うようになる。写真に映る今は亡きひいおばあちゃん、ひいおじいちゃんの顔をまじまじと見つめては人柄を想像し、着物にふれては彼女たちの暮らしぶりに想いを馳せた。

 ふりかえると、これまでお墓参りは父と祖父母に挨拶へ行くものだった。それが、今回は祖父母にも両親、おじいちゃんおばあちゃん、ひいおじいちゃんおばあちゃんがいて...というようにご先祖さまのことも想った。書いてみると、実に当たり前のこと。でも、この尊い存在を日常忘れて過ごしてしまうことの多いわたしなのだった。

 それでもこの事実を想うと、ご先祖さまがわたしを存在させてくれているのだと、お彼岸に手を合わせる自分なりの意味を見出せた。これは実に大きなこと。お彼岸だからお参りにいく、というよりもずっと。

 そして、帰り道。「パパ、おばあちゃん子だったから、お着物喜んだね。」と連れ添った母が言ってくれた。一輪が咲き始めた桜の木の下でのことだった。


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