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中国に再び「やって来る」がやって来た

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■「やって来る」もの

 魯迅の「やって来る」というエッセイの中に、こんなエピソードが語られています。
 
 「民国が成立したとき、私の住んでいた小さな県城でも、さっそく白旗を揚げた。ある日、突然、おおぜいの男女がごった返し始めた。城内のものは田舎に逃げるし、田舎のものは城内へ逃げる。何事がおこったのかと訊ねると、かれらのいわく《なんでも、やって来るっていいますぜ》……してみると、誰でもただ「やって来る」を恐れているわけだ。……」(竹内好訳)。

 ではこの「やって来る」ものとは何でしょうか。魯迅は別なエッセイでこう解説しています。

 「中国の歴史の整数の中には、実際、いかなる思想、いかなる主義も含まれていない。その整数は、ただ二つの物質から成る――刀と火と。『やって来る』が、その総称だ。……火が北から来ると、南へ逃げる。刀が前から来ると、後ろへ退く。うず高く積まれた大福帳が、みなこの伝だ。もし『やって来る』という名称があまり荘厳でないというなら、そして『刀と火』も露骨すぎるというなら、別に趣向をこらして、おくり名を献上してもいい。『聖武』――これなら上品だ」。

 そして、

 「むかし、秦の始皇帝が羽振りよかったとき、劉邦と項羽がそれを見て、邦は《ああ、大丈夫まさに此の如くなるべし》といい、羽は《彼、取って代わるべきなり》といった……あらゆる『彼』と『丈夫』の心中は、すべてこの『聖武』の生産所であり、収容所である。『此の如く』とは何か。説明すれば長くなるが、簡単に言ってしまえば、人類中の純粋に獣性の側面での欲望の満足――威福、子女、玉帛――にすぎない。しかし、それが、一切の大小丈夫にとって最高の理想(?)なのだ。私は、いまの人もまだこの理想に支配されていないかと思う」。

 要するにこれ、権力、権力欲そのものですよね。そして、中国では、権力者同士は命の取り合いを行うものの、一般人にとっては「聖武」に対して抵抗したり、打ち勝ったりするという発想はそもそもないようで、ただただ恐れ、逃げ惑い、災難としてやり過ごすことしか出来ないようです。

 その「やって来る」が久々に中国にやって来たようなのです。

■東方紅

 現在の中国のトップ、習近平は、わざわざ憲法を改正させてまでの国家主席3期目。自分の在任中に引き起こした不動産バブルとその崩壊で、中国経済は、深刻な不振に陥り、さらに、これも「戦狼外交」であちこちに居丈高が態度をとり、かみつき回ったおかげで、世界中から極度に警戒されるなど、西側の国であれば政権基盤がおかしくなるレベルの「業績」ですが、そこは歴史的な強権国家・中国、全く微動だにしません。市場が問題視しそうな経済情報を、諜報機関・秘密警察を使って押さえ込む事さえ行う始末です。

 ただ習近平の強権振りは、さらに加速しそうな気配があります。私がキナ臭いなと思う理由は、習近平が故・毛沢東主席を目指していると言われるからです。

 毛沢東は、いうまでもなく中国共産党の指導者で、国共内戦に勝利し、中華人民共和国を成立させました。礼賛歌「東方紅」で歌われているように、昇り来る太陽として、救世主として祭り上げられました。

 しかしトップとして成功したのはここまで。50年代に非科学的な「大躍進政策」を行い、中国経済を破壊し、多くの人民を餓死させました。その責任を党内で追及され、いったんは実権を失ったものの、60年代に権力闘争としての文化大革命を成功させ、中国全土を収容所化するような支配を行い、以来、その死まで権力を保持し続けました。

 これはもう近代的な革命政権ではなく、極めてアジア的な権力の姿といえます。どう考えても、革命の主体ではなく、その対象とされるべき存在です。

 権力者としての「聖武」は正に皇帝のものでしたが、現代政治家としての業績は惨憺たるものといえます。大躍進政策の時期、日本では高度成長が始まっており、ここでGDPで中国を抜き2010年まで上回っていました。要するに毛沢東は4000年の歴史の中で、初めて中国を日本より小さな国にしてしまった皇帝なのです。

 その毛沢東の、いったい何を理想とすると言うのでしょうか。習近平にとって、父親、習仲勲を文革で失脚させ、そして自身を下放させた人物。そこに親しみや尊敬などあるわけなどありません。もし独裁者としての偉容に引きつけられたというなら、毛沢東を見つめる習近平の眼差しは、もはや始皇帝をみる項羽と劉邦のそれと何ら変わりはありません。

■江青夫人まで登場か

 中国では、不動産バブル崩壊後、失業率が急上昇、自殺者数も増大。長江にかかるいくつもの橋から飛び込み自殺を図る者が引きも切らず。しかし、当局は、その自殺の原因となる経済状況を改善しようとするのではなく、各橋に数十メートルおきに監視員を置いて自殺という表面的な現象だけを押さえ込もうとしているようです。情報や言論さえコントロールできれば、どこまでも権力を維持できる。これが毛沢東精神の神髄なのでしょう。

 もっと不気味なこともあります。5月5~10日の習近平の欧州訪問で、同行した夫人、彭麗媛に対する中国メディアの扱いが、これまでとは比較にならないほど大きく、「準主役級」だったことです。これと前後して、香港メディアが、彭麗媛が共産党中央軍事委員会の幹部審査評議委員会専任委員に就任していると報道しました。中央軍事委員会は、鄧小平がそのトップとして天安門事件を乗り切った、中国共産党の権力の「肝」といっていいポストです。

 一部の中国ウォッチャーからは、もともと一歌手でしかなかった彭麗媛の、何らかの「政治デビュー」があるのではという観測が飛び出しています。要するに新たなる「江青夫人」です。中国人にとっては、もともと一女優に過ぎなかった江青が、毛沢東夫人として実権をふるうという文革期最悪の権力者の再来を想起させます。

 魯迅は「よその国を見よ。そこでは、この『やって来る』に抵抗するものこそ、主義をもった人民である。かれらは、その信ずる主義のために、ほかの一切のものを犠牲にして、骨肉をもって相手の刃を磨りへらし、血を注いで火焔を消した。刀と火のまぶしい色が消えかかったとき、はじめて薄明の天色は望まれた。それが、新しい世紀の燭光であった」と主張します。

 しかし、「新しい世紀の燭光」つまり真の東方紅を求める機運は、彼の国では、今回も欠片も見つけることが出来そうもありません。

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