179単位(仮)の思い出~ダブル教職、それはいばらすぎる道

先述のとおり、あこがれの先輩を追いかけてなんとか同じ大学に入学。

先輩は、私の入学とともに社会人となったため、ともにキャンパスライフを送ることはなかったが、1度くらいいっしょに学食に行ってみたかった。

無事数年越しの目標を達成したわたしは、いばらの道を自ら歩み、4年後に179単位(仮)取得し、なんとか卒業することとなる。

※(仮)は、卒業単位を確認できる書類がいま手元になく、(仮)となっています。後日実家で確認してみます。

いばらの正体は、教職である。

文学部に入学したわたしは、学びたいことがなかった。
なぜなら、先輩を追いかけて試験を受けたため、倍率の低い学部を倍率速報で日々追いかけ、法学部、経済学部、文学部の3学部を併願。

結果、文学部に拾われた。
外国語に興味があったため、文学部でよかったなと思った。

高い学費を払ってもらって過ごさせてもらう4年間。
大学に通っていないと取得できない資格を取ろう、と漠然と考えていた。
このときからすでにコスパを意識していた気もする。

ここで、教職である。

塾でのアルバイトの経験からも、教えることに興味があり、教職はとりたいと思っていた。

が。
わたしの学科はフランス文学科で、フランス語の教員免許って需要がなさそうだし、と、早々断念。

が。
2年生になっても、やっぱり教職を履修したほうがよかったかな…とモヤモヤしており、一念発起でフランス語の教職課程の履修を開始。

1年のブランクがあるため、履修科目は必然的に増える。

そして、3年生。
衝撃の事実を知る。

仏文科でも、英語の教員免許の取得が可能。

これは寝耳に水だった。
教職の授業でできた友人が教えてくれた。

これがまた複雑で、当時の仕組みでは、フランス文学科に在籍している学生は、フランス語の教員免許の取得を前提に、英米文学科の教職の履修が許されるとのことだった。

つまり。
フランス語と英語のダブル履修となる。

どうするわたし。

ただでさえ1年のブランクがあるため、なかなか厳しい時間割になるのは目に見えていた。

しかしながら、バイト三昧サークル三昧で遊び呆けていたわたしは、大学を卒業した後に何か残るのか?とふと思った。

同時に、

次に先輩に会ったときに、そのときの自分を語ることができる自分なのか?

入学してもなお先輩を意識していた。
これは、現在でも意識している。
こうすることで、試験などの時にモチベーションを保つことができている。

両親とも相談した結果、ダブル履修となった。
スポンサーの意見は強かった。

父も言っていたが、圧倒的に英語はフランス語より需要がある。
将来、教員になる、ならないに関わらず、将来の選択肢として多くの可能性を残しておくのは得策だと思った。

英語は嫌いではなかったが、知らない学科のゼミに飛び込み、知らない人々に囲まれる経験はなかなか心細く、緊張した。

とにかく単位を取得しようと、各所から情報を集め、せこせこ履修。
大学4年生になっても、週5で大学に通った。

辛かった。

とくに辛かった出来事は、出席自体が単位になるガイダンスをすっかり忘れて、脳梗塞で入院していた祖母のお見舞いに行ったことがあった。
帰り道に思い出し、体からサーっと血の気が引いた。

終わった…

いままでの努力はいったい…
しかも、教職課のスタッフの方々は、ものすごく怖いことで知られており、わたしも何度か塩対応をされていた。

教職課怖い。

次の日、朝一番に教職課へ行き、昨日ガイダンスに出忘れた旨を話すと、かぶせ気味に

「無理です。」

一蹴。

教職課のスタンスとしては、今後教員となるものが、ガイダンスすらも忘れて人の前にたつ仕事などできるわけがない、ということなのだと思う。

厳しいのは、教員という特殊な職業ゆえに、学生のうちから意識を持たせるということであったのだろう。

しかし、なんとか認めてもらえないかと、祖母が入院している旨も話した。

「では、入院証明書を出してください。」

入院証明書?
なんだそれ?と思いながら、とりあえず家に帰ると、祖母が入院していることがわかる書類があったので、次の日に提出した。

「結果は掲示板に掲示します。」

ガーン😱
即日結果がわかると思っていたわたしは、ひどく落ち込んだ。

甘かった

教職課の、当時とくに怖いと恐れられていたKさんに連日冷たくあしらわれ、その日からそわそわする日が続いた。

毎日毎日掲示板を隅々まで見る日々。

そして、1週間後くらいであっただろうか。

A4用紙の真ん中に1行(記憶ベース)、

'学籍番号○○○○○○○○は来なさい。'

紙まで怖い。

kさん登場。

「教職の履修を許可します。」

泣きそうだった。
何より祖母が心配していた。

「ありがとうございます…!!!!!!」

そして、

「おばあさまのご体調は大丈夫ですか?」

と。
kさんも、好きで厳しくしているのではもちろんなかった。
詳しくは覚えていないが、祖母の病状について色々と話を聞いていただいた。

この日を境に、絶対に教職を履修しきろうと決意した。

結果、念願かなってフランス語と英語の中高一種免許を取得した。

卒業論文が必須ではなかったこともあり、なんとか目標を達成した。
たくさんの人の協力あっての単位だった。

後日談であるが、翌年kさんには、次年度教職過程履修者向けガイダンスの登壇者として呼んでいただいたりもした。

卒業して数年たってから、用事があって教職課を訪ねた際に、

「あの、、kさんはいらっしゃいますか?」

と聞いてみたところ、kさんはその前年に定年退職されていた。
本当に残念であった。

この時わたしは、社会人を経て教員となることが決まっていた。
kさんに報告したかった。

紆余曲折を経て、現在はまた異なる職についている。
祖母も92歳となったが、いまだ健在だ。

いばらの道は本当に険しいけれど、これからの人生も、ちょっと無理かも…という選択をしていったほうが、わたしには合っているのかもしれない。

いつ先輩と会ってもよいように、現在の自分を語ることができる自分でいつもありたい。
(袋から出してもいない簿記のテキストを視界から外す)

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