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「働くこと」を通して世界が広がる。脳性麻痺当事者で、入所施設で暮らす私の半生と、将来の夢

はじめまして。佐々木真美といいます。仙台市の茂庭台というところにある、難病を抱えている方や、重度障害者の方が暮らしている入所施設「太白ありのまま舎」で暮らしながら、パソコンの視線入力ソフトなどを活用して、LITALICOという会社でのお仕事をしています。

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これからこのnoteで、私の日々の暮らしや仕事のことについてお伝えできればと思います。

まずはじめの記事は、現在に至るまでの、私の生い立ちについてです。少し長くなりますが、お付き合いいただけると嬉しいです。

脳性麻痺のある私の身体のこと、施設での生活のこと

私には、脳性麻痺という障害があり、電動車椅子で生活しています。電動車椅子というと手で操作する想像をされると思います。けれども自分は、手より足の方が思い通りに動かせるので足を使って運転しています。手で別なことをしながら運転できるので、「運転している」というよりは「歩いている」と感じます。

手については、電気を消す・扉の開け閉め・タンスからの服出しといった大きい動作はできるのですが、洋服をたたむ・書類をファイルに入れる・箸を正しく持つというような細かい動作は難しいです。

それと言語障害があります。ちょっとした単語や気になったことは言えますが、自分の意思を口から伝えることはできません。それをカバーしてくれるのが、ヘッドポインターと文字盤です。ヘッドポインター(以下ポインター)とは、ヘルメットに棒が付いていて、その棒で文字盤を指すなどができる道具です。ポインターを付けてもらうと、話はもちろん、洋服をたたむ・書類をファイルに入れる・キーボードを弾くなどができます。言わば、第三の手です。

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私は、高校3年生の5月から、仙台市茂庭台にある難病を抱えている方や、重度障害者の方が暮らしている施設に入所しました。下は20歳から、上は90歳以上の方まで利用されています。当時、施設の決まりでは、20歳未満は入所できませんでした。しかし自分は、運が良く施設の空きが空いたため、初となる17歳で入所できました。

高校では、普段は担任の先生と副担任の先生が曜日を決めて下さり、訪問授業を受けていました。学校へは、文化祭などの行事があるときのみ父と一緒に行っていました。

いつも友達と直接会うことが少ない寂しさはありました。けれども、担任と副担任の先生が居室にカメラを設置してくれ、クラスメイトや学校にいる先生方とSkypeを通じてコミュニケーションをとっていました。その1年間は、学生時代で1番嬉しかったことがありました。自分は母親がいないので、小中学生の授業参観に家族が来られることは、ほとんどありませんでした。けれども父と学校へ行くようになり、念願だった自分の親がいる授業参観を初めて体験できました。緊張はしましたが、ものすごく嬉しかったことを覚えています。そのような学校生活にも終わりが訪れます。


高校を卒業して出会った企業、はじめての「仕事」

卒業間際のこと、担任からとある企業を紹介されます。それが、いま働いているLITALICOです。

LITALICOは、障害のある人たちの支援をしている企業です。施設から通勤するには遠いので、遠隔操作で、自分のペースで働ける仕事を紹介してもらいました。最初にしていた仕事は、あるサイトのアンケートに3択の中から1つを選んで送信する仕事でした。なので、自分の気が済むまで出来てしまいます。

(編註: 真美さんとLITALICO-当時(株)イデアルキャリアが出会った時期には、企業からデータ入力等の業務を請け負い、それを障害のある方の就労機会とする事業を実施していました。その一環として、真美さんにモニター調査等の仕事を業務委託でお願いしていました)


実家には、母がわりだった祖母が暮らしていました。施設から実家へ外泊したときのこと、私は働き始めたことを報告しようと、「今、内職してるよ!」と教えました。すると祖母は、満面の笑顔で嬉し涙をながしてくれました。10年以上経った今でも、その笑顔は忘れられません!

それからその頃は、施設での自由時間に、PCで年賀状・細かいお小遣い帳をつくったり、育成ゲーム・趣味(絵や詩)を毎日するようになっていました。それから、施設職員に頼まれていた伝達文書を作ることも増えていきました。

LITALICOの仕事だけでなく趣味の時間、職員の手伝いなどでもPCを使うことが増え、当時は0時までPCをしてしまう日も多くありました。

生きる意味を見失った暗黒時代から、再び人を信じられるようになるまで

高校を卒業してはじまった新しい生活。仕事も趣味も、最初のうちは、充実感を感じていました。だけど、最初は「やりたい」と思っていたことが、同じことの繰り返しで、しんどくなってきました。中でも、施設職員に頼まれて伝達文書を作ることについて、隣の居室にいた入居者に「私は頼まれていないよ。だって、それ、スタッフの仕事だよ。断りな!」と言われたことがショックでした。

でも、職員からの反応が怖く断ることができませんでした。その生活から逃げたくなり、「なんで仕事をしているのに、施設職員の仕事を手伝わないといけないのだろう?私はなんのために生きているんだろう?」と思うようになりました。その気持ちを誰にも打ち解けられませんでした。

それからの自分は、自傷行為を繰り返すようになります。

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居室を真っ暗にし扉のカギを閉め、洗面台にあったハサミを利き手の左手に持ちお腹に刺そうとしたり、近所のスーパーへ行き、ナイフを買い、知っている人が誰もいない場所で使おうとしたり、居室の網戸についている紐を首に巻いて、電動車椅子を思い切り動かして引っ張ろうとしたり…。でも、そのたびに、うまく力が入らなかったり、道具を落としてしまったりして失敗しました。ある日公園に行って、56段ある階段から車椅子ごと飛び降りたこともあります。車椅子が私を守り、どこも怪我をしていませんでした。

施設職員にも見つかるたび、注意を受けました。

「死にたい」「自分はどうせ死ぬんだ」という気持ちの中、排泄コントロールができなくなったり、昼夜の生活リズムが逆転したり、幻聴に苦しめられたり…いろんな症状が出る時期が続きました。職員との衝突も多く、食事中に自分の思い通りにならないと食器が置いてあるおぼんを落としたりしていました。

そんな中、私を変えてくれたリハビリの先生との出会いがありました。最初のうちは、ベットに横になっている時にスタッフから腰痛がすることを伝えてもらい、コリをほぐしてをしてもらっていました。しかし、回数が増えるうちに先生のことを信頼できるようになっていきました。

それからは、居室から離れたところにあるリハビリスペースへ行くようになり、だんだんと行動範囲が広がりました。先生は、リハビリ中に他の入居者から声をかけられると、まるで私の心を読んでいるかのように「今リハビリ中だから、後で話聞くね!」と一対一の関わりをしてくれました。先生がいた頃も、嫌なことがあると自分の腕を噛んだり、頭を壁にぶつけるということはありました。周囲は、ただ「なぜそんなことするの?」といった反応でしたが、先生は、私自身が「やってしまった」と思わせてくれるような、寄り添った関わり方をして下さりました。おそらく私が発達障害ということを、本人よりも早く気が付いていたのでしょう。先生には、3年間お世話になりました。

人を拒絶していた私に、改めて”人を信頼する”ということを教えてくれた方です。

先生が退職してからも、精神を崩すことなく確実に前へ進んでいました。けれども、その一方で買い物に行って疲れて店から帰って来られない・薬局でもらった薬を洋服のポケットから出し忘れ洗濯に入れる・他者からの意見を受け入れることに時間がかかる・人と話すことが嫌になる・周囲とのズレを感じる・居室から事務所の距離で代引きの金額を忘れる、ということを繰り返していました。

そんな中、TVの福祉番組で発達障害について放送されていました。その放送で紹介していた特徴が自分の困っていたことと重なり、自分ももしかしたらADHDなのではないか?と思うようになりました。それまで偏見の目で見てきた発達障害を自ら疑う始まりでした。

そして自我が芽生えてきた頃、東日本大震災がありました。自分は、施設にいたので無事でした。震災が収まり、普段通りの生活に戻った頃のことです。あるTV番組に「ソナーポケット」(以下、ソナポケ)という3人組の歌手がゲストで出演していました。そのとき、まだリハビリの先生との別れが寂しく、失恋ソングで号泣し、「歌で、ここまで泣いたことはない!」と思い、一気に気になる歌手となりました。それ以降、CDやDVDを買い、どんな曲を歌っているのかを知っていきました。

色々なMVを見続けるうち、あることに気が付きました。ソナポケのボーカル、eyeronの首の右側に、縫った痕があるのを見つけたのです。詳しい理由は分かりませんでしたが、私は彼の傷跡を見た瞬間、生きる覚悟を決めたのでした。5年経った今もeyeronのファンで、毎年ライブを通じ、お互いの成長を楽しんでいます。

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ちょうどその頃、施設に私への電話がありました。電話をかけてきて下さったのは、自分が今働いている、LITALICOの方でした。「今度、会いに行ってもいいですか?」というような連絡だった気がします。

これまで書いてきたように、私の心が不安定な状態が続き、しばらく仕事をストップしてしまっていました。また、私自身も自分が働いていたことをすっかり忘れてしまっていたのです。なので、電話がかかってきたときは、不思議でたまりませんでした。

施設には、担当の方だけでなく、代表取締役社長の長谷川敦弥さんも一緒に来てくれました。その場で改めて、「一緒に働きたいです。宜しくお願い致します。」と伝えました。

他にも、色々な話をしました。その中で自分が覚えているのは、ネット上にあるADHDの情報を見て、自分もその可能性があると思う、というのを話したことです。久しぶりに会ったLITALICOの人に、そんな話をするなんて、我ながら勇気があるなーと思いました。

それから、もう1つ話したことがあります。福祉番組で見たことですが、視線入力ができるPCがあるということを知ったので、「そのPCを使って仕事をしたいです」と言いました。その後、会社で視線入力のPC(トビーといいます)を業者さんから買って下さり、身体を大事にしながら働かせていただいています。

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会話が全部終わった後、記念撮影を撮りました。全員で撮った後、敦弥さんともツーショットを撮りました。本当は真っ直ぐな姿勢で写りたかったのですが、その方が近くに寄って来たのでちょっと引いてしまいました(笑)

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仕事を通して、「誰かの役に立ちたい」と思えるようになったこと

2015年5月からはアルバイト契約となり、施設から遠隔で働かせてもらっています。最初していた仕事は、社内にある小学校低学年のお子さんが使う教材を、PCで入力する仕事でした。

当時の自分は、「働く」というと、テキパキと速く次々と仕事をするようなイメージがありました。ですが現実はなかなか思うようにはいかず、また、私の身体を心配してくださる会社の方ともぶつかってしまい、心の健康を保てず休んでしまうこともありました。

その頃も、嫌なことがあると命の大切さを忘れてしまう人間でした。夜中にベッドに頭を押しつけ首を折ろうとしたり、寒い夜に布団をはぎ顔を窓際に下ろし、凍死しようとしたりしていました。

そんな私にも、ある日転機が訪れます。夜中、ベッドの柵に手を挟まないようかけてあったひざ掛けを顔にかぶせて、窒息死しようとしました。だんだん息苦しくなり、お花畑が見えて、死を意識しました。しかしその直後、LITALICOの仲間の笑顔が頭に浮かびました。私は泣きながらひざ掛けを外しました。仲間には、感謝しきれないほど感謝しています。

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東京・中目黒のLITALICO本社を訪問したときの集合写真

夏の暑い日のことです。会社から、もともと知っていた女性の方と、初めて会う男性の方が施設へいらしてくださいました。男性の方は、後に4年間上司としてお世話になる、金井敦司さんです。それまでお会いになったことはなかったのですが、同じ腕時計をしていたり、誕生日が同じ月だったりと共通点がありました。もちろん最初から打ち解けられたのではありませんが、誰かに注意されても「ついていきたい!」と思えたことは、この人が初めてでした。自分がどういう人かを知り尽くして下さった気がします。

上司が金井さんに変わった最初の頃は、休暇を頂く前にしていた教材作りを引き続きしていました。色々な物語を知ることができ、作る側も勉強になりました。そして中には、自分の学生時代に習った物語があり、懐かしみながら働いていました。

それからしばらく経ったときのことです。「真美さん、国語の教材用にオリジナルの物語を書いてみませんか?」という勧めを頂きました。低学年のお子さん向けと決まりがあったので難しかったです。ですが、同世代のお子さんがいる施設のスタッフに「お子さん、何して遊んでる?」と聞いて情報を集めたり、自身が同じ年代のとき、何をしていたか振り返るなどをして書いていました。先ほども書いたように、決して簡単とは言えませんが、自分が考えた物語が誰かの教材になるとは夢にも思っていませんでした。なのでワクワクし、嬉しかったです!

発達障害への知識が深まり、「一人ひとり、それぞれに困りごとがある」と思えるようになった

2016年の10月のことです。教材制作の仕事から移って、新しい仕事を始めることになりました。発達障害のポータルサイト「LITALICO発達ナビ」での仕事です。

当時の上司の金井さんと、当時LITALICO発達ナビの編集長で、後に私の仕事の上司となる鈴木悠平さんが面談にいらしてくださいました。

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現在の上司の鈴木悠平さん(左)と、それまでお世話になった前の上司の金井敦司さん(中央)と

お互い初めてだったので、自己紹介をしました。そのときも自分がADHDではないかと思っていることを伝え、気になっていたことを書いていたノートを見ていただきました。その後に、発達ナビがどのようなサイトで、どのような方が利用されているのかを教えていただきました。

「ライターさんや編集部が書いたコラムの感想を書いて、ユーザーさんにコラムを紹介してください」それが、悠平さんに頼まれた発達ナビでの最初に仕事でした。

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最初、自分は正直「学校の宿題でもあるまいし…。」となめていました。けれども実際にやってみると、お客様の立場になりつつコラムを読んだ感想を書くことは、想像していたよりすごく難しかったです。なぜなら発達障害にはいろんな種類があり、それぞれに特徴や困りごとが違うので、個々の状況・気持ちをイメージしながら感想を書かなければならないからです。それから、お客様のその後の環境がより良くなることを願い、最後にメッセージを添えることも一筋縄ではいきませんでした。

しばらく経った頃、新たに2つの仕事に挑戦することになりました。1つは、発達ナビを初めて利用される方が安心してサイトを使えるように歓迎のメッセージを送る業務でした。何かを提供することが初めてだったので、難しさを感じながらも利用者様の世界を広げられることに嬉しさを感じました。

もう1つは、編集部が作るアンケート調査のお客様からの投稿に対してコメントや、いいね!をする仕事です。この仕事も、相手の立場になってお互いの気持ちをシェアするので、積極的にコメントを返すことが最初は難しかったです。今は、お客様からのコメントや、いいね!が目で確認できるのでやりがいを感じ取り組んでいます!

発達ナビで働くようになって、私自身が持っていた発達障害への偏見がなくなっていくことを感じました。

学生時代、クラスメイトに発達障害がある友達が数人いて、パニックなどの様々な症状に驚いてしまい、それがきっかけで偏見を持っていました。けれども発達ナビを通じて、実は本人が1番困っていること、困りごとは一人ひとり違うこと、決して本人の努力不足ではないことなどを学んでいきました。それから本人と同じくらい、または本人の倍以上、困られていらっしゃる保護者の方がおられることに気が付きました。そうした方々の日常生活が少しでも豊かに過ごせるようアドバイスをしたり、思いを共感し合ったりしています。

そしてその中で、自分自身にも発達障害の特徴があることに気が付きました。仕事を通して発達障害について学び、長年の疑問を解きながら自分自身に向き合っています。


私にとっての「働くこと」 そして将来の夢

いま働いているLITALICOという場所は、自分にとって、施設ではない場でお互いのニーズについて語り合える場です。それから、会社の仲間やお客様の立場になり、「寄り添う」ことを学ぶ場所。そして何より、1人の人間として成長できる環境です。

私には夢が2つあります。

1つはニーズがあり、働きたいのにも関わらず、働くことを諦めようとしている方に「実は違うんですよ!!設備が整っていたら、どんな方にだって働けますよ!」と案内ができる支援者になりたいということです!

2つ目は、医療的ケアや胃瘻が必要な方々も会社へ通い、働ける社会にしたいということです。会社へ通うことが難しくても、ご自宅や病院・施設にいながら仕事ができる環境を作りたいです。そして例え、症状が重く自分の意思をご自身で伝えることが難しい方にも、脳波などのテクノロジーを活用し、「働きたい!」気持ちがある方を尊重できる会社を作りたいです!

私は小・中学生時代を医療療育センターと支援学校がつながっている所で生活をしていました。

センターと学校には、色々な障害や病気を抱えている仲間がいました。足や手の変形などを手術して翌週には、学校へ先生や看護士さんに連れていってもらい、ベッドで勉強をする子。自分も含め、勉強と勉強の20分間程度の少し長い休み時間に、一旦センターへ戻り治療や、ちょっとしたリハビリをして再び学校に行く子。事故の後遺症や、障害などで胃瘻から栄養をとる子。私は、胃瘻が必要な子や、自分と同じように言語障害がある友達と、授業を含め一緒に過ごすことが多かったです。すると、顔を見るだけで相手が言いたいことが分かったり、まばたきでお互いの意思表示をできるようにもなりました。

そうした経験から、自分の力で伝えることが困難な方にも意思があることを知り、いつしか「どんな考えを持っているのだろう?」「そうした考えを活かせないだろうか?」「もったいない…」と思うようになりました。なので、障害が重く、自分の口で話せない人でも、自分の意思を伝えて働ける社会にしていきたいと思うようになりました。

夢に向かって、今与えていただいている仕事を日々頑張っています。今後、自身が仕事を通じて、どう変わっていくのか楽しみです!


最後に、これから働く方々へ

私が思うに、働くことは、仕事をするだけでなく、人と人が関わり合える機会だと思います。自分は、施設にいながら働くことで世界が広がりました。もし働いていなかったら、自ら成長を感じられることはなかったでしょう。

仕事は、必ず自分のしたいこととは限りません。でもだからこそ、自分の可能性を知るチャンスでもあり、その可能性と、自分のしたいことがマッチすると、夢に繋がるのだと思います。

私は、あなたが働くことを応援します!だってそれは、あなたが選んだ選択なのですから!きっと、素敵な出会いや、想像つかなかった自分が待っているはずですよ!!

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