日記10月2日(土) #日記  「便利」は怖い。

こういったコンビニ(便利)な環境によって、私たちは「お金さえ出せば自分の思いどおりになる」という価値観になってきていて、この価値観が、私たちの心を貧しくしてしまっているように感じています。
自然の中、村の中で生きていれば、1人ひとりの思いどおりになることのほうが少なく、不合理なこともある中で、それぞれが折り合いをつけながら生きていたはずです。
その環境の中で、人々は「お互いさま」「おかげさま」と心と心で支え合い、「あの人があのときに支えてくれたから、今回は全力で助けてあげよう」と、自然に相手を思いやるような「人情の循環」があったかと思うのです。
しかし今では、人情に代わって法律やルール、サービスが整備されたため、いろいろなことが「思いどおりになってしかるべき」という感覚の人が増えています。
もちろん今の社会において、ルールやサービスは不可欠ですが、それらが人の心と心のつながりから生み出される「ありがたいもの」ではなく、「当然の権利」としてとらえる感覚を生み出しているのも否めないのです。
「私のこの権利は守られてしかるべきである」という感覚で、ちょっとしたことでも相手を責めたり訴えたりするようになり、相手の立場や気持ちを推し量り、思いやり、尊重するという気持ちが希薄になり、心がすさみやすくなってしまっているのです。
同時に、自然の驚異や不合理極まりない要素を取り除こうとする、強い使命感や信念、生きがいといったものを見いだしにくくもなり、これが「苦痛耐性」を低くしている大きな要因になっている気がします。
その結果、こんなにも便利な世の中であるにもかかわらず、自死を選ぶ人は後を絶ちません。これは、構造的な問題ととらえても過言ではないと私は考えています。
かつては「キモチ」でやられていたことを、無機質な「ルール」に置き換えたり、物質社会が便利になればなるほど、取り繕えば取り繕うほど、本質は見えなくなりますが、その中で、アシュラムの僧侶と、物欲的な世界で生きる人たちをつなぎ、乾いた心をどう潤すことができるのかという本質を伝えているのが『モンク思考』です。
綿本 彰 9月30日 東洋経済オンラインより

傲慢で居ることが自然で当たり前である社会。何らかの理由でそのことが確保できないと、その責任を自分以外の要因だと自然に怒りを以て感じる。

だが多分、そのことには自覚的である方が多分より「幸せ」である。

人の所為にすることは、多分すべからく人は心の何処かでやましく感じるものでもあり、エゴはそのやましさが大好物であって、それを隠蔽する決して成功しない心の動きと、それとセットとなるストレスをつぎのステップとして人に強いることとなる。

マインドフルネスと呼ばれる瞑想や坐禅はやましさを感じる前からあるがままの心の前に魂を立たせる。そこでは多分心と魂は別であることも明らかにする。

そんな感覚で、たまに心?魂?を、坐禅状態に持って行く。その時は実はリアル身体は座っていなくてもよかったりする。

お志本当に嬉しく思います。インプットに努めよきアウトプットが出来るように努力致します。