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日記6月23日(水) #日記 "時間”とは概念だが、変化としての”永遠”はある。

昨日は通常であればトレーニングセンターという名のジムの日。であるのだが、所用でなし。だが帰宅時夕食前の体重は64.7KG。体脂肪率は7.2%であった。こうなると翌日朝体脂肪率が上がってがっくり、ということになるが、今朝朝食前で65.1kg、9.2%とまあまあ。暑くなると、意地でスーツなので、発汗がすごくて体重キープできるのだろうか(動物なので、冬ごもり時は脂肪蓄積?)。

いやあ、気が付くと近視眼的な視野である。だがそれは仕方がない。一人で生まれ、一人で死ぬのだから。その間はいろんな意味での諸要素との関連があるわけだが。仕事と家族、というのが、近視眼的必須アイテムである。

別に近視眼的であることが悪いわけではないだろう。だが、”近視眼的である”ということを時々思いだしたりするほうがいいような気がする。

”時間”というものも、近視眼的に受け取ると”当たり前”項目の一つとなるが、例えば動物には”時間”の感覚はないだろう。記憶、が時間とニアリーイコールかもしれないが、多分、人間以外のどのような動植物も、”今”を、”今”だけを生きているし、疑問もそもそも持たない。

だが”時間”という人間独自の発明概念を通して例えば接する我がペット、ああ、この子の寿命は最長で20年、あと何年一緒にいられるか、とこうなる(猫をイメージしています)。

そう、思うことも別に悪い事ではない、というか味わい深いであろう。

だが、猫は生きている、今を。寄り添う仲間である人間に元気がなければ、前足をポンと人間の前足に置くこともあるだろう。そこには、別に”時”はない。

そこで二人あるいは二匹、あるいは一人と一匹には、永遠、がある。続かない、永遠だ。

そこで思いついたのがタイトルの概念(というほどでもありませんが)、

"時間”とは概念だが、変化としての”永遠”はある。

なんちゅうか、トートロジーというか、韜晦的といおうか、はたまたなんにも言ってはいない、気もするが。

だが、まあ、そういう風なことを、思ったので、これは日記なので、備忘として書いておきます。

村上春樹、騎士団長殺し、無事に1巻上から読みだしている。

大変に、面白い。

主人公が、画家、というのがこれまた面白い。私自身は画家というわけではないのだが、画家、という生業に憧れるものだ。

絵、の周辺事情も、自分なりに感じている。

なので、すごく、感情移入ができやすい、ようだ。

昨日の日記で、書店員さんによる解説の一部を引用したが、その方は主人公に感情移入できない小説は読めない、とおっしゃっていた。

激しく、同意、というところだろう。

たとえ表層的なものが、おっさんであっても、秘密的読書(読書とは本質的に秘密の行為だと私は思っていて、だからあまりひとと”読書感想を言い合う”と言う行為は比較的苦手なのですが)でいけば、主人公がねずみのガンバであっても、赤毛の少女であっても、はたまたホビットであっても、感情移入は可能である。

だが、すこし自身と共通点があるほうが、多い方が、感情移入はよりラクチンではある。

この作品は、まだ読みはじめではあるが、主人公が画家である、ということで、非常にワクワクしているのだ。

(さすが、なんていうと偉そうですが、さすが村上春樹、ですね!)

お志本当に嬉しく思います。インプットに努めよきアウトプットが出来るように努力致します。