当たり前でゲシュタルト崩壊
こんにちは僕です。
39記事目です。もう勝手に手が動きます。
今日は『当たり前』っていうことについて書きます。
まず、当たり前ってこの言葉の意味は、辞書によるとこうです。
あたりまえ-【当(た)り前】
①
だれが考えてもそうであるべきだと思うこと。当然なこと。また,そのさま。 「困っている人を助けるのは-のこと」
②
普通と変わっていない・こと(さま)。世間なみ。なみ。 「 -の人間」 「 -にやっていたのでは成功しない」
当たり前って言葉自体も色んな風に捉えることができるし、その当たり前の基準も人によって本当にバラバラだと思います。
僕はいつかの記事で、幸せは『当たり前に感謝できること』っていう記事を書きました。難しいことですが、今置かれている環境に感謝できれば少しは心が豊かになるっていうような内容でした。
でもふと、当たり前って色んな形で僕の日常にいるなあと思いました。
まずは、自分の置かれてる環境だったり、自分自身の容姿だったりなかなか変えられない当たり前。自分が今東京で働いていて、東京のちっちゃーい和室のお家に住んでいて、おでこにはハリーばりの傷があって、メガネないと生活できないっていう『事実としての当たり前』。これは変えることがとても大変だし、勇気のいる当たり前だと思います。
他には、社会だったり、会社だったり、ある場所の『ルールみたいな当たり前』。誰かによって決められた当たり前。この当たり前についてはちょっとこわいなあっていうところもあって、疑うべき部分も絶対あると思います。
コロナでこの当たり前はかなり揺らいだと思います。特に「出社してまでそれをするべきなの?」っていうことだとかを疑うようになる機会にもなったと思います。この機会で当たり前を疑うようになった方はお多いのではないでしょうか。
次は自分の考え方ややれることの、『自分自身の中にある当たり前』。この当たり前はすごく大切だと思っていて、いかにそれを柔軟に捉えて、その当たり前を広く、多く持てるかどうかによって、その人(自分自身)の見られ方が大きく変わってくる部分だと思います。
この当たり前は、何にでも当てはまると思いますが、例えば、僕にとっては朝ごはんを食べることは当たり前ですが、誰かにとっては朝ごはんを食べることは当たり前でないかもしれません。朝にお風呂入るのが当たり前の人もいれば、夜にお風呂入るのが当たり前かもしれません。僕にとってnoteを書くのが当たり前になりつつありますが、これは行動としての当たり前(習慣)みたいなもので、この当たり前はどんどん増やしていきたいし、自分にとって当たり前にできることはたくさんあればあるほど、その人を説明する時の良い材料になるなと思っています。
考え方で行くと、"「コロナ心配やけど自分ぐらい」とパチンコに行ってしまう人の当たり前"と、"「医療の現場で毎日頑張ってくれてる人がいるからと自分だけでも」と家にいる人の当たり前"は全然違います。人のことをネットで当たり前のように誹謗中傷している人もいます。
この考え方の当たり前(価値観)の部分は人付き合いする上でめちゃくちゃ大事な部分です。僕もやっぱり仲良い人とはこの部分が合っているんだと思うし、この価値観が合わないとなかなか仲良くなれないんじゃないかと思っています。
逆に新しい価値観(良い意味)をくれるっていう側面もあるので、合わなければ全員が敵みたいなことではないです。むしろ良い価値観を与えてくれる人とは一緒にいたいし、自分もそういう人になりたいと思います。
いくつか上げましたが、文脈とか場面によって『当たり前』って色んな捉え方ができるなあと思いました。"感謝すべき当たり前"もあれば、"疑うべき当たり前"もあれば、"増やすべき当たり前"もあるっていうことです。
『当たり前』っておもしろい言葉だなあとふと思ったので書いてみました。
さて、この文章で当たり前っていう単語を何回使ったでしょう。
本日も最後まで読んで頂きありがとうございました!
P.S. 昨日会った友達が、僕らのTシャツ来てくれてて感動しました。ありがとう。好きです♡
それではまた次回のnoteでお会いしましょう。ばいばい!
興井
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