グラフィックス1

ナナフシ#1

(この物語はフィクションです。数回にわけて完結させます)

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 それに気がついたのは洗面台で朝の支度をしているときだった。いつものように冷たい水で顔を洗い、タオルで顔をぬぐいながら、ふとトイレタンクの上に飾った壜ざしのコナラの枝に目を留めた。
 おととい、恋人と山へ散策に行ったときに、彼がわたしに拾ってくれた枝だった。
『葉の色といい、枝葉の具合といい、とても美しい。きみはこれをあの殺風景なユニットバスに飾るといいよ』
 本気ではなかったかもしれないが、言われたとおりにした。わたしはいろんなものを大事にするたちで、こと恋人にまつわる物となると、ちり紙一枚でも後生大事に感じてしまう癖があるのだ。
 細かい産毛が生えた健やかな枝に、小さな手の平のような葉が五片ついている。わたしは枝の向きを少し変えて、恋人のコナラを眺めた。そこで、ある葉の茎に白い糸のような短い蔦が絡んでいることに気づいた。他の茎のどこにも、そんな蔦は生えていない。不思議に思い、そっと爪の先で触れようとした。するとその蔦は、茎の上を風に吹かれて浮遊するように、ふわふわと移動した。そして、ぽとり、とトイレタンクの上に落ちた。よくよく見るとそれは、二本の触角と、胴体と六本の足を持っていた。

「これはおそらくナナフシという昆虫の子どもだよ」恋人は小さいジャムの空き瓶に詰めたそれを、蛍光灯にかざして眺めた。
 終業後に時間を合わせて、喫茶店でコーヒーを飲むのがわたしたちの日常だった。窓の外はすでに暗く、家路を急ぐ会社員たちや、車のライトが流れていくのが見えていた。
「不思議な生き物ね。何を食べるの?」
「草食だろうけど、詳しいことはわからない」
 恋人は瓶をテーブルに静かに置いて、代わりにコーヒーカップに指をひっかけた。
「けれど、大人になった姿はかなりグロテスクだよ。木の枝に完全に擬態するんだ」
 瓶の中のナナフシはまだ人差し指の先ほどの大きさしかなく、やや緑がかった白で、光に照らされると透けているようにさえ見えた。黒胡麻のような二つの眼と茶色い関節の筋さえなければ、昆虫だとはわからない。
「可愛い」
 思わず、そう形容した。「育ててみようかな」
 恋人は形のいい眉をひそめて笑った。「まさか」
 喫茶店はコーヒーの温かい香りと、煙草の甘い匂いで満たされている。彼の肩越しの席で、サラリーマン風の中年の男たちが商談をしてるのが見えた。BGMにはピアノの音で、有名な曲が流れている。
 恋人は真意を確かめるように、わたしを見つめた。彼は決して男前な方ではないが、わたしの心を満たすのには申し分のない造形を持ち合わせていた。太い眉と、たくましく突き出た鼻。丸い後頭部は少年のようで、癖のある髪質はつい指をからませたい気持ちを起こさせる。腕まくりをしたときの腕の筋や、手の甲に生えている体毛など、それらはわたしが持ち合わせていないもので、いちいち興味を奪われた。わたしにとってその点では、恋人にするには申し分のない人だった。
「きみは虫が嫌いでしょう?」
 恋人は足を組み直して、テーブルに肘をついた。
「あなたがくれたコナラの枝についていたんだもの。虫であろうと捨ててしまうのはいやなの」
「よくわからん理屈だ。まあ、きみのお得意だけど」
 恋人はなぜか嬉しそうな表情を浮かべた。
「捨ててしまえばいいよ。近くの公園にでも放せばいいんだ」
「……でも」
「大きくなってから後悔しても知らないよ。格好良くも可愛らしくもない虫なんだから。それがきみの部屋にいるとなると笑えないね」
 わたしは口をつぐんだ。飲み干したカップの底にはスチームミルクの泡が残っている。
「じゃあ、あなたが捨てて」
 わたしは瓶を彼のほうに押しやった。
 恋人は訊き返す。
「なぜ?」
「あなたがくれたんだもの、あなたに返すわ」
「うーん。まあ、いいだろう」
 彼はにわかに軽く伸びをし、腕時計を確かめた。
「そろそろ戻るよ。まだ片付けが残ってるんだ」
 話は終わったとばかりに立ち上がり、コートと伝票を手に取る。去り際に、大きな手でジャムの瓶をつかみ、スーツのポケットに仕舞った。恋人が去ってすぐに、店員が彼の分のカップを下げに来た。
 わたしは頬杖をついて、カップの底に残ったスチームミルクの泡をかき混ぜた。ミルクの泡をスプーンで掬ってなめるとほろ苦く、そのあとほんのりと甘い味が舌の上に残る。さっきのBGMの曲名を思い出そうとするが、どうしてもわからない。そのうち考えるのを諦めて席を立った。

 喫茶店を出て、大通りでバスに乗る。十五分ほど揺られてから停留所でバスを降りる。冷たい風に身震いしながら歩いている間も、脳裏にあの昆虫の儚い姿が思い浮かんでいた。頭を振って振り払う。これでよかったんだ、今までどおりに戻っただけなのだから。
 オートロックの鍵を開け、マンションの表玄関に入った。郵便受けに配達物がないことを確かめて、停まっていたエレベーターに乗りこむ。壁に寄りかかって、扉の窓ガラスから見えるエントランスを二階、三階、四階、と数えながら見届ける。部屋に近づくにつれ、身体の重さはどんどん増していく。
 エレベーターを降りて、鍵を開け暗い部屋に入った。後ろ手にドアを施錠し、玄関の明かりをつけて、靴箱の上の飾り皿に鍵を放る。外の世界が遠ざかった代わりに、自分の存在がはっきり浮き上がった。わたしは自分の孤独感の重苦しさにびっくりして、胸に手を当て、息を整えた。
  今、ナナフシがここにいればどうだろう? むしろ、なぜ、ナナフシはここにいないのだろう? 
 わたしは靴脱ぎ場に立ったまま、かばんをまさぐって携帯を探し出した。まだ会社にいるであろう恋人に電話をかけた。
「やっと今、会社を出たところだ」
 電話口では地下鉄のアナウンスが聞こえた。「どうしたの?」
「あの虫、捨てちゃった?」
「え、なんだって?」
 電話越しに、電車がホームに入る警告音が鳴りはじめた。
「ナナフシを返してほしいの。もう捨てちゃった?」
 わたしはなかば泣きそうになりながら訊ねた。
「ああ、まだポケットに入っているよ。ちょっと待って」
 ポケットを探る気配がして「うん、まだ生きている」と言った。
「やっぱり、育てたいの。大きくなって、気持ち悪くなってもいいの」
「わかったよ」
 恋人は笑ったようだ。「今から持っていこう」
 わたしは嬉しくなってさっそくナナフシを迎える準備をした。米びつ代わりにしていた二リットルのペットボトルを空けて、そそぎ口のプラスチックの部分を包丁で切り落とし、コナラを枝ごと入れた。三十分ほどして、恋人はやって来た。
 恋人はジャム瓶を逆さに振って、手の平にナナフシを載せた。ナナフシは細かく前後に揺れながら、恋人の手の平から中指を伝って、素直にペットボトルの中に入って行った。ナナフシが窒息しないように、入り口はキッチンペーパーを輪ゴムでとめて蓋をした。
 そのあとわたしたちは、床の上で必要なだけ服を脱いで愛し合った。恋人の手はまだ冷たかったが、すぐに熱を持って洋服の下を撫でていった。そばに置いてあったペットボトルが倒れそうだったので、手を伸ばしてローテーブルの上に移動させた。そして恋人の後頭部の髪に指をさしこんで、少年のような毛の感触をもてあそんだ。
 すべて済ませると恋人は家に帰って行った。玄関まで見送らないのはいつものことだ。けれどいつもと違って、わたしにはナナフシがいた。わたしは床の上に寝そべったまま、ペットボトルを手元に引き寄せて眺めた。ナナフシはたまに細かく揺れるので、かろうじて生きていることを確認できた。環境の変化に立ちすくんでいるようにも見えたし、庇護されることを理解して安心しているようにも見えた。あるいは、何も考えていないのかもしれなかった。

(続く)

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(毎回、吉日に更新いたします。次は2020年1月25日(土)です)

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