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もしもわが子が

結婚して一度流産したあと、息子が私のおなかにやってきた。

一度目はとても初期の流産で、心臓が動くことなく出てきてしまった。

だから二度目の妊娠がわかったとき、もしかしたらまた同じことが起こるのかもしれないな、と心のどこかで思っていた。

次は心臓が動いているかもしれない、という検診の日。駅から病院までの間、足はふわふわして心臓はばくばくしていた。だめだったときにショックを受けすぎないように、一生懸命に気持ちのバランスを取った。今思うと、小さい小さい身体で一生懸命生きている息子に失礼な話なのだけれど、そのときの私はまだ母の自覚もなにもなくて、ただただ不安と戦っていた。

結果、小さな赤ちゃんの心臓はしっかりどくどくと動いていた。迎えにきた夫の車に乗ったら安心してぽろぽろと涙があふれた。

生きて、うまれてきてくれたら、ほかのことはどうでもいい、と思った。


育児に少し息づまった日、夫に息子を任せてひとりでふらりと行った本屋さんで、『選べなかった命 出生前診断の誤診で生まれた子』(河合香織著, 文春文庫)という本を見つけたとき、心がぎゅっとつかまれたような感覚をおぼえた。迷ったけれど、手にとった。ドキドキした。出生前診断で産まない選択をする場合があることはもちろん知っているけれど、その選択をするお母さんの思いは想像するよりもずっと複雑で深いものだと思う。自分が母になった今、それを知りたいと思った。

本はノンフィクションで、出生前診断で異常が出ていたにもかかわらず間違って異常なしと伝えられ、生まれてからダウン症とわかったお母さんのことを中心としたもの。生まれた赤ちゃんは一生懸命に生きたけれど、3ヶ月半で亡くなった。出生前診断での誤診がなければ、赤ちゃんは苦しまずにすんだということで、お母さんは、3ヶ月半苦しみながら生きた赤ちゃんに対しての謝罪を求める裁判を起こす。


出生前診断については、息子がおなかにいるとき、一度だけ夫と話した。私は37歳で新しい命を授かった。それだけで、20代で産むお母さんと比べると、ダウン症の可能性はかなり高い。それでも、"生きてうまれてきてくれれば"と思っていた私にとって、出生前診断に必要性を感じなかった。そもそも、出生前診断でわかる障害はとても限られている。

おそるおそる「こういうのもあるんだけど」と夫に話してみたら、彼も私と同じ考えだった。


裁判を起こしたお母さんは、うまれてきた子を中絶したかった、と言っているわけではないし、本当に愛して大切に想っていたのだった。でも、もし出生前診断で異常を伝えられていたら、中絶する可能性はあったことになる。お母さんの子どもを思う気持ちにとても共感しながら、そのことについては読んでいて最後までもやもやしてしまった。


"生きてうまれてきてくれたら"と思っていた。

それでも、いざうまれるとなったとき、健康にうまれてきてくれることを願った。

当たり前だ。

実は高齢出産に加え、夫の両親が聴覚障害をもっていることもあって、なおさら何かしらの異常があることもあると思っていたのだけれど、うまれてきた息子はそれはそれは健康で、よく食べ、よく遊び、よく笑い、よく寝る子だった。


もし、うまれてきた子がダウン症だったら。または、重い障害をもっていたら。

中絶すればよかった、とは絶対に思わない。それだけは自信がある。障害があったらかわいそうだとも、幸せじゃないとも思わない。でも、実際に赤ちゃんが障害をもってうまれてきたら、常に命の危機と戦わなければならない状況だったとしたら、私はどんな精神状態になるのだろう。想像もつかない不安や悲しみにおそわれるのか。100%前向きな気持ちで赤ちゃんと向き合えるのか。


命のおもさを考えたとき、出生前診断の結果によって中絶することは本当に悲しい。私自身はその選択はしない。命が宿った時点でもう、その命はその子のもの。親がその命をなくすか生かすか選ぶことなんてできない、と思っている。でもこの本を読んで、その選択をした人が、想像できないような悲しみや痛みを感じているかもしれないのだということはわかった。

人の気持ちは、そのひと以外、本当にはわからないものだ。自分には理解できないところがあるとどうしてももやもやしてしまうのだけれど、人の選択に正しいとか、間違っているとかは誰にも言えない。








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