ブラジルでの思い出

先日、なぜか家事をしていたらブラジルから日本へ戻る前に友人たちが開いてくれた送別会のことを思い出した。

その日は確か午後12時の開催で、食べ物を持ち寄って行う予定だった。集まってくれた人たちはブラジル人(日系ブラジル人も)と日本人という構成だったのだけど、最初に集まったのは日本人で、しかも日本人の駐在の人も来ていたのだけど、(私の知人の旦那)はじまりの挨拶をしているのにもう食べ始めているという、いいおじさんなのに全く自分勝手な人だなと嫌悪した。子供でもとりえずいただきますをしてから食べると思うのだけど、彼は最初からがっつり食べていて本当にひいた。

そして、ブラジル人たちが到着したのは13時ごろ、、、食べ物はほとんどなくなってしまっていて本当に申し訳なかった。しかも、日本人チームVS日系ブラジル人とブラジル人チームというなんとも恐ろしい状況が空気から感じられた。日本で工場勤務経験のあった日系2世の女の子がその雰囲気を感じ、泣きだしてしまった。以前、日本人にいじわるをされたことを人づてに聞いたことがあった。

私がブラジルで出会う日系人は日本に出稼ぎにきたことがある人が多かった。日本に住んだことのある2世、3世の方は日本人に対してあまりいい印象を持っていない人もいた。ある日、初めてあった日系のおばさんに”あなたはすぐにポルトガル語を話せるようにならないといけないし、ブラジル人のような服を着ないといけないし、お化粧も髪形も変えないといけない””と言われた。繊細で若かった私は傷ついた。とても気分が悪かった。どうして自分を変えないといけないの!と思った。もし、差別を受けるから身を守るために変えたほうが良いといわれたら、そうかとわかることもできただろうけど。しかし、そのような説明はなかった。その後も日本から持っていった服を着続けても、メイクを特に変えなくても激しい差別を受けることはなかった。嫌な思いと言えば、物乞いの人にナイフで脅された。その程度だった。

私はブラジルで生活するまで、日系ブラジル人の歴史についてよく知らなかった。日本の大学がブラジル人の多い地域に近かったので、日本での日系ブラジル人に関するニュースを耳にすることはあったし、なぜかブラジル概論を選択授業で選んだけれど、結局彼らがなぜ日本で仕事をしているのか (仕事をすることができるのか)深いところまでは理解していなかった。当時の非日系ブラジル人パートナーには、散々日系移民の歴史に関していかに私は無知で私が愚かなのか責められたけど、じゃあどれだけの日本人が日系人について知っているのだろうと思う。今でも。

ブラジルの日系の方々の努力でブラジルは大きく発展した。日本人が文字通り勤勉に働き、子孫に良い教育を受けさせ、そして政治や医療に貢献している。でも、110年前の日系の人々の苦しみや努力は、私には到底理解できないと思う。希望をもって家族で、あるいは家庭の代表として移民として船に乗り未知の整備されていない野放しの土地へ移動する。当時は農家の人たちが多く移民として日本から出発した。いまだに日系の資料や映画作品を見ると苦しくなるし、昔の日本人の辛抱強さには本当に頭が下がる。

植物園で散歩していたら、1世だか2世の方と話をする機会があって、あなたはブラジル語ができるのねと褒めてくれた。(多分日系のおばあちゃんたちはポルトガル語とは言わないのかも)”だいぶ前に呼ばれて日本へ行ったんだけど、すっかり変わってしまって、(駅の改札とか、切符の購入方法とか意味わからんとなったそうで)もう日本には行きたいくはない”と話された。いろんな期待をもって帰ってみたらすっかり便利なのか不便なのかよくわからない日本に変わってしまっていたんだと思う。私がこんなに恋しい日本に”帰りたくない”と思う日本にルーツがある人がいるんだと初めて知った瞬間だった。

散歩道で見つけた桑の木、もしかしたら100年前に日本からもってきたのかなと思うととても胸が熱くなったのを覚えている。船に蚕と桑をのせてもってきたのかなと勝手に想像した。道に生えているヨモギを見てこれも持ってきたのかな、ヨモギを摘んで草餅作っていたのかなとか、、いろんなことを想像する度に、気持ちが腐っても、なんとか最後までブラジルでがんばろうと思ったのだった。

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