#002 リスク・コミュニケーション

前回はリスク・コミュニケーションなどと、ちょっと面倒な言い方をしてしまったが、要するに僕はそれを「居酒屋で友達と飲んでいたら、隣のテーブルの知らない人からツッコミが入る不愉快さ」と説明したらいいだろうと考えている。

こちらのテーブルで共有できている前提を、隣のテーブルでは共有できない。その前提を確認し合う作業をすっ飛ばし、僕らの話は既に先へと進んで行く。ところが、その枝葉の話に引っかかってしまう人がいる訳だ。

残念なことに(そして腹立たしいことに)、その部分における彼らの主張に正当性がある場合がある。

例えば僕は、今年の3月頃「ウイルスだけではなく経済でも人は死んで行く」と考えていた。予想通り4月、5月になり、長らく付き合いのあった仲間たちがバタバタと倒れていった。彼らは売上低下により自分の商売をたたんだ。

正直なところ、そのことは僕に大きな精神的ダメージを与えた。長らくお互いを励まし合って来た仲間たち。話し合うことで互いの知見やアイディアを交換し合って来た仲間たちだ。その仲間たちがバタバタと倒れていく。僕は大切な財産を失った。

彼らの無念にどうしたって僕はシンパシーを感じてしまう訳だ。思い出すなら恥ずかしいが、普段から付き合いのある若手の業界関係者との飲み会の席で「オイオイ」と泣いてしまったことがあった。

さて、僕は当時、以下のように考えていた。

「ウイルスだけではなく経済でも人は死んで行く」と考えるなら、
①感染拡大防止を考え、どのようにウイルスと向き合うか?
②経済活動を停滞させないように、何をすべきか?
そのふたつのことを同時に考えなければならない。

それが難しいことは明らかで、しかし、問題を矮小化することで問題解決の糸口を掴んだような気分になってしまう人たちがいた。①を優先し、すべてのリソースをそこに投入すればいいと考えていた人たち。

「ゼロリスク思考」の人たちは経済活動のことなど考えない。インフルエンザの脅威にも興味がなく、その一部は自粛警察となる訳だ。僕も今回、彼らには随分と嫌がらせを受けた(笑)。

それは敵の全滅を望むのは難しい戦いだ。どうしたって消耗戦にならざるを得ない。見える敵のある戦争なら戦力の逐次投入は愚かなことだが、相手がウィルスならそうとは限らない。戦力の集中投下で消耗戦を戦うなら負けが近付く。

「感染拡大防止策を施しながら営業をする」ということが、①と②を同時に考えるということなのだが、ゼロリスク教の信者の皆様は②のことなど考えない。

こちらはリスクを考慮して営業するにはどうするか?を考えるが、彼らは営業すること自体が許せない。彼らの教義に反するということなのだろう。

僕には彼らがPCR検査陽性者、感染者、患者、重篤者の違いを理解しないように見えたし、そんな人たちとはコミュケーション自体が成立しない。三密を避けなければ「人類滅亡!」と考えていたのだろうか。

恐怖に駆られた人は視野狭窄に陥り、判断材料を失い、少ない選択肢の中から正解を選ぼうとしているのだが、最適解はその視野の外側にある。本人は選択と集中を行った結果の判断と考えているようで悲しい限りだ。

それでも不安な彼らはやがて正義を持ち出し始める。ゼロリスクを信仰する彼らに向かって経済活動の話をするなど、横槍以外の何者でもないのだろう。僕のような人間など、正義の旗を振る彼らにとって格好の餌食だ。

ただ、多くの場合、彼らのほとんどは悪人ではない。
そのこともまた、僕の気持ちを複雑にさせた。
相手が善人なら、僕は大概のことを赦してしまうから。

実のところ、今回のコロナ禍から僕はいくつかのことを学んだけれど、ウイスキーの世界でも似たようなことが起こっている。コロナ禍から僕が学んだことをそこに被せるなら、認知バイアスが飲み手の判断を合理性から遠ざけているのではないかと思うようになった。

まぁ、いきなりそんな話をしても伝わることはないだろうが、ピンと来る人はいるかもしれない。実はこの件、僕がこのnoteで伝えたいと考える重要なテーマのひとつ。じっくりと取り組みたいので、末長いお付き合いを。

さて、そんな訳で、
次回から僕が今、ウイスキー界隈をどのように眺めているか。あるいは、それをどのように眺めて来たか、みたいな話をしようと思う。まぁ1回では終わらない話。寄り道をしながら続けて行きたいと思っている。

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