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Bitter Cold -1.ただのふたり

「雪だよ、雪!」

家の前を駆けていく幼稚園帰りの園児たちが叫ぶ声で目が覚めた。
ベッド頭上の時計を見ると、もう10時近かった。

身体を起こしてカーテンを開けてみると本当に雪が降っていた。
白く染まった景色がまぶしくて一瞬目がくらむ。

ちょうど雪の夢を見ていた事を思い出す。

私は電車に乗っていた。
車窓の外には住宅街が広がり、街は真っ白に覆われていた。
雪は既に止んでいて、太陽の光が雪に反射し、眩しかった。

電車はそんな街の中を真っ直ぐに走っていくという夢。

だから、とても不思議な気持ちになりながらもまた布団を被った。
布団の中は何より暖かくて、気持ちが良かった。

30分程してようやく起きる。

露で湿った窓を手で拭うと、ふわふわと風に乗って静かに舞い降りる雪が見える。
去年の大雪を思い出して、また積もったら楽しいのになどと考えながら服を着替え、外へ出た。

裸の街路樹が青山通りまで真っ直ぐに続いている。
それに沿って少し足を速めて約束の場所へと向かう。

雪はなおも、静かに渦を巻いて降り続いていた。

* * *

待ち合わせのカフェに近づいた時、窓際の席に彼が座っているのが見え、足を止めた。

彼が先に着いているということはとても珍しい事だった。
けれど理由はわかる。

たぶん、雪が降ったから。

白いテーブルの上に白いカップがひとつ。
彼は足を組んで、空を見ていた。

薄明るい雲から落ちる雪を、少し眩しそうに目を細めて、ずっと眺めている。

彼はあんな風に、懐かしむような、切ないような、曖昧な表情でどこか遠くを見ている時がある。

その度に私は、声に出せない質問を繰り返す。

“何を見ているの?”

急に手の届かない所へ行ってしまったかのように、その存在を遠く感じる。
そして私はその顔が好きだった。
その顔に、惚れた。

つま先が冷え切るまで、私はそうして、ただじっと彼を見ていた。

ふと、彼が私の視線に気づく。

少し照れ臭そうに、彼は静かに微笑んだ。

私にはその笑顔が、この静かに舞い下りてくる雪と同じ様な柔らかさに感じた。
ふっと息が詰まる。

私は急ぎ足で店の中へ入った。

* * *

「今日の雪って、天使の羽根みたい!」

席に着く時にわざとはしゃいでそう言うと、また彼は微笑む。
声をあまり立てずに、静かに。
いつも言葉少ない人だった。 それでも私は十分に楽しかった。

外を見る。
曇った窓ガラス1枚隔てた向こうとこちらでは別世界で、2つの世界が存在しているという事が私は好きだった。

冬という季節もとても好きだし、何よりこちら側の暖かさが安らぎをくれる。

私はスープを頼んだ。
家を出てくる時、チョコレートを少しかじっただけだったからお腹が空いていた。ギリギリまで寝ていたせいだけど。

「今日ね、幼稚園生たちが外で "雪だ!" って叫ぶ声で起きたの」

彼はカップを口に運びながら耳を傾ける。
「私もなんだかワクワクしちゃって」

「幼稚園生と一緒に、遊んだらいいじゃない。違和感ないよ」
「もう、何でそういう事言うの?」

また、静かに笑う。
自分だってワクワクして、早起きしたに違いないくせに。

そんな彼には恋人がいる。
くっ付いたり離れたりしてい5年近くにもなる彼女が。
ただ、彼はあまり前向きじゃないみたい。

そして私と彼は歳が10歳も離れている。
なのに私たちはこうして2人で逢う。

まるで恋人同士のように逢うことを繰り返している。

でも、私たちは恋人ではない。

ただのふたり。

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スープが運ばれてきた。湯気を立てて滑らかに揺れている。1口、2口、3口と間を開けずに食べる。

彼は左肘で頬杖をついて、窓の向こうをまた眺めてる。
食べてる時はあまり目を合わそうとしない。この人の気配りなのかもと思う。

窓の向こう。
雪。

歩きにくそうに通りを行く人。
冷たく濡れた街路樹。
のろのろ進む車。

その上に、限りなく白に近い灰色の空。

彼が今見ているものは、それらは単にフィルターにすぎず、透かして透かして、何かひとつを見ている、という気がする。

彼の瞳に今、描かれている世界を見たい。

いつも私は思う。

彼のキャンパスに描かれる世界。
私はその絵を観る。

『2人は今、同じ景色を観ている』
窓の向こうの、雪。

私と彼が繋がる瞬間。

それが私にとっての至福の瞬間なのだと思いながら彼の見つめる方向を観る。

そんな私の視線に気づいて、彼が私を見る。
そして、私の頬を指でそっと突く。優しい笑顔で包み込みながら。

私は彼と一緒に過ごすことが倖せだ。
こんな風な、こんな場面に出くわすと、特にそう思う。

恋人ではないから、いつまでもそんな風に思えるのかもしれない。

私たちは事務的な会い方はしない。

会いたくなった時、うまくいけば、会う。

例えば今日の別れ際に次会う約束は交わさない。

だけど、本当は切ないに決まっている。

心の隅で、もう1人の、寂しがり屋の私がいつも泣いている。

* * *

店を出ても、まだまだ雪は降り続く。
「寒い、寒いっ」

冷たい風に吹かれておでこまで冷え始め、手袋をはめた手で顔をおさえた。

「雪は嬉しいけど、寒いのは嫌だなぁ」
「我儘だな」

彼は苦笑いをしながら私の頬をつまむ。彼は私の頬が好きみたい。

私は傘を差す彼の左肘につかまって、汚れた歩道の雪の上をじゃりじゃりと歩いた。

街は目の前に迫るクリスマスの為か、恋人たちが多い。
私たちはクリスマス当日は会えない。
だから、お互いへのプレゼントを今日決める事にしている。

何がいいか。
そうね、チョコレートとかは?
それはバレンタインだろう。

歩きながらあれこれやりとりすれば、会話がコートのように包んで寒さを感じなくなる。

「私はね、やっぱりその、後に残るものとか、よくないんじゃないかと」

彼女の目に触れたらね、って考えて言ったのに、彼はどうして?と首を傾げる。

「気にしなくていいよ。欲しいものは何?」

「本当にいいの? じゃあ…、そうね、マフラー新しくしたかったから、マフラーにしようかな」
「マフラーね」

店を見つけて入るなり、彼は私が選ぶ余地もなく2色のマフラーを手に取った。
1本はアイボリーというか、クリーム色。もう1本はブラウン。

「僕ね、チョコレートの広告で見たこの組み合わせ、すごくいいセンスだと思ってたんだ」

そういって、私の首にブラウンの、いや、チョコレート色のマフラーを巻いた。

「君のコートは白系だからこっち。僕はちょうど茶系だからこっち」

2人で、色違いのマフラーをする事になった。
彼が選んだもので。

嬉しそうな、ちょっと得意そうな彼の笑顔を見ると、心が溶けそうになる。

この笑顔は、私だけのもの?

違うんだよね。

彼女には、どんな顔を見せているの?

* * *

雪はますます勢いを増してきた。
まるで時がずっと繰り返し同じ時間を刻むかのように思えてくる。
街行く人たちは寒さで表情が厳しい。
恋人たちは肩を寄せて歩く。

今の私はこのタイムレスな雪の中で彼との時間がずっと続くような気持ちになって、少し愉快だった。

「寒い、寒い」

彼のコートにくっついて甘えると、彼は立ち止まって正面から私をコートの中へ包み込んだ。

「あったかい」

おどけながら私は彼を見上げる。
彼は私の瞳を覗き込んで、頬にキスをしたあと、唇を重ねてくる。
道の真中で。
いつもの事だから、驚いたりしない。

ただ、少し切なくなる。

だから一瞬目を伏せる。私の悲しい気持ちに気づかれないように。
笑顔の下にはいつだって嘘付きな言葉や気持ちが隠れている。

彼は私を包んだまま、脇道に逸れて人波から外れた。
そして強く強く、抱きしめる。
彼は額をぶつけてくる。
笑った顔はまるで同い年の男の子のよう。屈託ない。

けれど彼は私より "大人" なのだ。

時折見せる大人の表情の彼に私は参ってしまう。

胸が締め付けられて、痛くて何も言えなくなってしまう。
あまりにも落ち着いていて、あまりにも切ないから。

そんな事をあれこれ考えていたら、彼の胸にはまったまま、私はそのうちに黙り込んでしまった。

彼も黙って私の髪をくしゃくしゃと撫ででいたけれど、しまいにその手を休めて、じっと私を抱きしめていた。

「もうすぐ誕生日だな」

彼が呟く。
3月になったら、私はやっと19歳になる。

「当日、お祝いしてくれる?」

期待を込めて尋ねてしまったけれど、 本当は期待なんかしてはいけない。
案の定、彼は小さく唸りながら考え込む。

「当日会えるか約束は出来ないけど、お祝いはしょう」

ほらね。
きっと、1人ぼっちの誕生日になるよ。きっと。

「うん。それでも全然いいから」
そして笑いながら私もまたひとつ、嘘をつく。

私がここで我儘言わないから、こうして2人でいられる。
だったら、私は何だって我慢する。
嘘だってつく。

私さえ我慢すれば、彼とまた会えるから。

彼はまた私を強く抱きしめる。
これは、どういう意味があるのだろうと、ふと思う。

私の笑顔がいじらしいと思うのか、それとも、彼は本当は知っているのか。

私の本当の気持ちを、知っていてくれているのだろうか。

「苦しい」

私はもがいた。慌てて腕が解かれる。
私の頬は赤く染まって、髪が乱れていた。
彼はそれを見てまた、笑った。

電車が止まったりしないうちに、早めに別れる。
同じ沿線。先に降りるのは彼。

「また連絡するよ」といつものように彼は言い、私も「バイバイ」と、いつものように手を振る。

雪は幾センチか積もっていた。



つづく


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