蜜蜂 第7話

紫陽花が、雨に濡れている。

僕たちは静かに雨宿りをしていた。
傘を持っていたのは菜緒の方だったが、何を血迷ったのか、橋の上から川へ投げ捨てたのだった。

そしてしばらく雨に濡れながら歩いた後、シャッターの下りたこの店先へやってきたのだった。

どこか喫茶店にでも入って休もうよ、と言ったのだが、菜緒は黙って首を横に振った。

「このお店は、きっともう潰れちゃったのね」

寒そうに肩を抱きながら菜緒は言った。確かにそのシャッターはかなり古びていて、もう長いこと開けられていないような雰囲気だった。

「寒い?」

菜緒はまた黙って首を横に振っただけだった。

寒くないわけはないのだ。髪から滴がこぼれていたし、ブラウスもぴったりと肌に吸い付いていた。少し色を悪くした唇が微かに震えていた。

僕は自分のジャケットを脱いで菜緒の肩にかけようとしたが、彼女はそれを振り払った。

「そんな事したら、翔さんが風邪を引いちゃうわ」
「だったら、何処か中へ入ろうよ」
「いいの、こうしていたいから」

寒そうに震えて菜緒は笑った。しばらく、お互い何も言わなかった。

「何で、傘捨てたりしたんだ?」

ふいに、僕は尋ねた。

「雨宿りがしたかったからよ」

あっさり、菜緒は答えた。

「俺にはどういう事か、さっぱりわからないよ」
「雨が好きなのよ。ただ、それだけなの」

僕はわかったような、わからないような、曖昧な気持ちだった。
すると菜緒は続けて言った。

「翔さんと雨宿りがしたかったのよ。こんな風な古風な雨宿り。隣に好きな人がいて、同じ空を見上げてね、そっと、雨が止むのを待つの。2人でじっと。それがしたかったのよ」

僕はうつむいて、自分の足元を見詰めていた。

「翔さん、どうしていつまでも私と会ってくれてるの?」
「え?」

僕は驚いて菜緒の顔を見た。

菜緒は僕の胸の奥まで貫くような視線を投げた。その瞳は相変わらず大きくて魅力的で、しっとりと潤っていた。

「いい加減、彼女が怒ってやしない?」
「怒ってないよ」

そう答えると菜緒は大きなため息をついた。そして"まいったなぁ"と呟いた。

「彼女はそんなに自信があるんだ。翔さんにそれだけ愛されてるって自信がなきゃ、そんな余裕はかませないもんね。私がかなう相手じゃないんだなぁ」

僕は何も言えなかった。菜緒は続けて言った。

「だって、私たちはキスまでしているのに。普通じゃ考えられないよ。もちろん、私は翔さんを責めたりしないけどね。でも、恋人だって言ったっておかしくないような事たくさんしているのに、彼女は全部許してしまうんだもの。ものすごく妬けちゃうな、翔さんと彼女の関係。そんなにカタイなんて、なんで私はここにいるんだろうね」

「菜緒、もうやめろ」

僕は自分でも驚くほど強い口調で言い放った。菜緒も驚いて、少し呆気にとられていた。

「ど、どうしたの?」

菜緒はかなり戸惑っているようだった。ただ、僕は菜緒の口から恋人の話が出てくるのを、ひどく苦痛に感じていた。

「ごめん。私が気に障るような事言ったのなら謝るから。ごめんね。だから嫌いにならないで」

菜緒は僕の腕を掴んで、すがるような瞳で言った。

「嫌いになんかならないよ」
「ごめん、ごめんなさい。もう言わない、絶対に言わないから」

少し神経質すぎるくらい、菜緒は平謝りをした。僕はすっかり冷めて、本当にもういいよ、と繰り返していた。

菜緒は僕の手を取って自分の頬に充て、そして言った。

「嫌いにならないで。私、翔さんがいなくなっちゃったら、もう生きていけなくなっちゃうよ」
「何バカな事言ってんだよ。大げさだろ」
「私はずっとずっと翔さんだけのものだよ。翔さんは私のものではないけれど、私は絶対に他の誰のものにもならない。ずっと、翔さんだけのものだからね」

菜緒は少し病的で、僕は少し背筋が寒くなった。

「菜緒、もう行こう。本当に風邪を引くから」

僕は菜緒を抱き寄せて言った。

「私、翔さんのためだけに生きている。いつもいつも、あなたの事しか考えていないんだよ。出来ることならね、あなたに溶け込んでしまいたいくらい、大好きなんだよ」

まるで、夢遊病者のような目をしていた。

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つづく

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