散歩と偶然性

独立研究者である森田真生さんが書かれた『偶然の散歩』というエッセイ集に出会いました。文字通り「散歩」という場の中での偶然、一瞬一瞬に意識を止めて紡がれる言葉が美しい。一部を引用しながら、私も徒然なるままに言葉を紡いでみたいと思います。

今日は「散歩に行こうよ」から。

歩く速度でしか見えないものがある。
 サクラの新芽にイモムシがやってくる。
 岩かげにサワガニが隠れている。
ともに歩いてくれる人がいるからこそ、歩く速度を緩めることができる。

「歩く速度でしか見えないものがある」

これは本当にその通りだなと思うわけです。見えないだけでなく、記憶にも残りません。一方、一瞬一瞬に意識を向けながら歩いた記憶は身体に深々と根を張っています。目を閉じれば、歩いた場所の景色だけでなく、香りも、道の凹凸も身体の内側から、新鮮によみがえってきます。不思議ですね。

急いだほうが限られた時間の中で行ける範囲は広く、進む距離は長いです。ですが、思い返したときに思い起こせないならば、それは記憶ではなく記録に残る時間。自分の命も限られている。最後に思い起こされるのは、記録に残る時間ではなく、記憶に残る時間だと思うのです。自分が行ける範囲は広くなくても、進む距離は短いかもしれないとしても、記憶に残る時間を積み重ねていきたいものです。

四季折々の花が道端に咲いています。早く歩みを進めている時は視界が狭くなり、視界には入っているかもしれないませんが、意識に立ち上りません。

街並み。歩いている人の表情、声、言葉。今日という日を振り返った時に、すれ違った人の顔を思い出せるでしょうか。思い浮かんでくるでしょうか。

 散歩に行こうよ。
そう呼びかけ合える相手と、一生にどれだけ出会えるだろうか。
目的もなく、行く先もなく、ただ一度きりの偶然を分かち合う。
それは本当に特別なことなのである。

「散歩に行こうよ」

以前観たとある映画で「無目的が目的」という言葉に出会いました。目的を決めないと、その瞬間の出会い一つひとつが予期せぬ目的に変わる。そんな予期せぬ偶然が楽しいのです。同じ散歩は二度とない。

「なんか気になる」

直感が働く瞬間が訪れる。言葉では上手く説明できないけれど、たしかに心が動いている。直感でつかまえて、足を止めて、じっくりと心を配る。散歩は情緒的な営みだなと思うのです。

環境に飛び込むというのか、環境が自分の内側に融けてゆくというのか。外で音楽を聴きながら歩いていては、この感覚は得られないように思います。一つのことに集中するというより、色々なことに同時に意識をぼんやりと。そのほうが直感が働くような気がします。

誰かと一緒に散歩するって、いいですね。

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