見出し画像

「自分の重さを預ける」ということ

力を抜くとは「自分の重さを預けること」ではないだろうか。いつものヨガを終えて、ふとそう思った。

ヨガには「シャバアーサナ」と呼ばれるアーサナがある。シャバはサンスクリット語で「屍」を意味するため、屍のポーズとも呼ばれる。床の上で仰向けになり、全身の力を抜いてゆくポーズになる。

ヨガの一連の動作(シークエンス)の中で緊張と弛緩を繰り返してゆくわけだけれど、こと弛緩・脱力は難しい。例えば、何かの物をギュッとつかんだ後、手の力を緩めて解くのは(普段は意識していないかもしれないけれど)案外難しい。自分では力を抜いていると思っても、どこかの部位が緊張してしまうことは少なくない。

では、「どういう時に脱力できていると感じるのか?」と問われると、その答えは極めてシンプルで「地面"から"の支えをしっかりと感じている時」ということ。

物理学でいうところの作用・反作用の法則で、たとえば壁を押している時に自分は壁から押し返されている。自分が床に寝そべっている時に動かないのは床のその先の先にある大地が支えてくれている(自分の重さと等しい力で押し返してくれている)から。

文句も言わず、黙々と全身を支えてくれている大地に、自分の重さを預けていると不思議と安心感に包み込まれるし、どこか大地と自分がつながったかのような感覚になる。

考えてみれば、地球上に存在する全ての存在は大地に支えられている。膨大な質量の海水ですら、その圧力を海底が受け止めている。大地が支えてくれなければ立つこともできないし、建物も建たないため生活もままならない。生命は大地に委ねられている。まさに母なる大地。

話は横道に逸れてしまったけれど「自分の重さを預ける」ことが日常生活の中でどれだけあるだろうか。どれだけできているだろうか。人はずっと緊張し続けたまま生きてゆくのは難しい。時に力を抜くからこそ、新しい一日を迎えることができる。緊張と弛緩の繰り返しの中に生活がある。

「自分の重さを預ける」ためには、預けることのできる存在が必要。それは大切な誰かかもしれないし、落ち着く場所かもしれないし、あるいは自然の中かもしれない。自分の重さを預けるということは、逆に預けられた側には支えるための力が必要で、それは多かれ少なかれ「緊張」している状態を伴うもの。

だから、自分の重さを預けたのなら、今度は相手の重さを自分が引き受けて支えになることも必要になる。緊張と弛緩の繰り返しは他者との関係の中で時に同じタイミングで、時に交互に繰り返されるからこそ、循環し、そして持続していく。過剰な負荷がかかるところから関係性は崩れていく。

ヨガという言葉の語源を調べてみると、yuj(ユジュ)というサンスクリット語に行き着く。yujの意味は「くびき(馬と馬車をつなぐ道具)」であることから、ヨガは「結ぶ・つながり」と解釈されている。

自分の身体を通して学ぶことが、見えているようで見えていなかったことに気付くことがどれほど多いことか。身体を通して、自分の内側に深く潜ってゆきたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?