夢=「演じることを意識していない状態」
今日は『わかりあえないことから- コミュニケーション能力とは何か-』(著:平田オリザ)より第8章:協調性から社交性へから「演じるサルとして」を読みました。
本節の主題は「演じるということ」です。
昨日読んだ本書の中で「人間とはタマネギのようなものである」という気づきがありました。その心は「タマネギはどこから皮でどこからが実なのか、その境目は存在しない。皮の総体がタマネギである。人間も同じで、本当の自分を探るために自分の表層から深層に向かっても実は存在しない。様々な文脈の中で立ち現れる色々な自分の集まりが自分である」というものです。
このフレーズを足がかりにすると、良い悪いの判断を一旦保留して「自分にはこんなところもあるし、あんなところもある」と色々な自分に出会い直すことが大切なように思いました。
自己啓発、自己探求、自己分析。そのような言葉にあふれる現代社会ですが唯一無二の真実の自分というものを追求すると逆に息苦しくなってしまう。そうした副作用があるように思います。
本節において、著者は「教育の目的は、主体的に演じることを楽しむ子どもたちを作ること」というメッセージを打ち出しています。その真意はどこにあるのでしょうか。
なぜ「いい子を演じる」ことは問題になるのか?
「演じるということ」を考える上で、著者は秋葉原の連続殺傷事件での被告の発言を引いています。
著者は「いい子を演じる」という問題を提起していますが、なぜ「いい子を演じる」ことが問題になるのでしょうか?
「いい子を演じさせられる」「騙すことにはなれてる」
被告の言葉から察するに、自分のまわりからの強い圧力を感じていて、その圧力を和らげる手段として、「演じる」ことを意識して選択している。
一方、これまでの著者の言葉をたどると、私たちは日常の様々な場面で役割を変えながら他者と関係を構築していて、「演じる」という意識が立ちのぼりません。
この「演じること」に対する意識・無意識の違いがヒントになりそうです。
「演じさせられる」と感じてしまうことが問題。
著者は「いい子を演じること」と教育の目的について次のように述べます。
この著者の言葉にふれた瞬間、何だかモヤモヤした気持ちになりました。「何を言っているんだろう…。いい子を演じるのを楽しむほどのしたたかな子どもを作りたい?」そして、次の著者の言葉にハッとしたのです。
「日本では、演じるという言葉には常にマイナスのイメージがつきまとう。演じることは、自分を偽ることであり、相手を騙すことのように思われている。」
そう。自分が「演じる」という言葉に対してマイナスのイメージを持っていたのだということに気付いたのです。そのマイナスのイメージを持ったまま著者の言葉に触れたからこそモヤモヤした気持ちになった、違和感を覚えたのだということに。
そして、核心は「演じることが悪いのではない。「演じさせられる」と感じてしまったときに、問題が起こる。」という著者の言葉です。
どのようなときに、何がきっかけで「演じさせられる」と感じてしまうのでしょうか。逆に演じることを意識しない時はどのような時なのでしょうか。
ふと「夢中」という言葉が降りてきました。何かに夢中になっているとき、人は演じることを意識していないのではないか、と。
夢中になっているときは「外からの期待に応えなくては」という外発的動機で動いているのではなく、自分の内側から発せられる衝動(内発的動機)で動いている状態です。夢は「寝ているときに見るもの」というより「演じることを意識していない状態」として再解釈ができるように思います。
実際に寝ているときに夢を見ている。夢の中の自分は、本当の自分なのか偽りの自分なのか意識することはほとんどありません。その意味では「演じることを意識していない状態」という夢の再定義は、寝ているときに見る夢もその内側に包むことができます。
「多くの市民は、それもまた自分の人生の一部分として受け入れ、楽しさと苦しさを同居させながら人生を生きている。」との著者の言葉も踏まえると、どこか熱狂的なイメージがつきまとう「夢中」という言葉をもう少しリラックスして使ってもいいように思いました。
「いつまでもこの穏やかな時間が続けばいいのに…」という時間は覚めたくない夢。
話は横道にそれましたが「言葉の印象と意味を切り離す」という過程を経ることで、言葉の可能性を引き出せるように思いました。
印象の力はとても強く、自然と印象を受けてしまうもの。それを受け入れた上で、反射的に良い悪いを決めつけない。そういう態度を保留する。
違和感を紐解いていくことで、あたり前のように使っている言葉に、そして意識していなかった自分出会い直すことができるように思うのです。
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