源頼朝の死因

吾妻鏡に頼朝落馬としか書いてないのでそこから後は歴史学者お得意の学説になる。暗殺説も状況証拠からで暗殺者の自白も命令者の指示も証拠がなく、脳梗塞説も医学水準から判明しなくて死ぬ直前の様子からの推定。死後怨霊鎮護神社建立されてて怨霊説もある。だから原因不明。
本来、その人間の死因というのは科学的見解でも推定であり、科学で見るのか呪術で見るのかで全く扱いが違い、はっきりと鎌倉時代には怨霊が人を取り殺すという思想があったので、頼朝の死因はというと怨霊説もリストに入れる必要がある。現に怨霊鎮護神社がある。
暗殺説の場合、命令者で想定されるのは13人存在する。鎌倉殿の13人というのは頼朝死後の御家人集団指導体制のことでその御家人は13人いたと判明している。それとわからないように毒を盛るなら一番容疑が濃厚なのは北条義時である。だがあくまでも状況証拠である。
脳梗塞説の場合、死ぬ直前の様子で現代に伝わっていることから推定されているもので、鎌倉時代の医療水準では直接脳梗塞を特定する技術は存在していない。
糖尿病説もある。やたらに水を飲んでいたので飲水の病いかと思われていたという。高血糖で喉が渇いて水を飲んでいたのであろうというものである。
わかっているのは落馬して亡くなったということだけ、単に落馬した際に頭部を強打して死亡したことも考えられる。
人間の死因はよくわからないこともよくある。
源頼朝は初代鎌倉将軍で征夷大将軍だが、頼朝以前に征夷大将軍は幾人も居て、阿倍比羅夫や坂上田村麻呂などが征夷大将軍でその言葉が示す様にもともと蝦夷と戦争する将軍だったのである。源頼朝以降幕府を開くのに征夷大将軍になるというのが慣例になり源氏であることが条件になる。
平安時代に五位の官職以上の公卿は畿内から出ることを禁止されていたので源頼朝は流人であったこともあり官位は低かった。それで鎌倉にいることが出来たのであり五位以上になっていたら京に帰ることになっただろう。
京都の公家だった大江広元も五位以上の公卿ではなかったとみられそれで鎌倉幕府の御家人となる。
大江広元は兵事を扱っていたので謀略を行って頼朝暗殺を指示した人物の容疑もあった。だが確たる証拠は見つからなかったのである。
頼朝の死因はこのように見事に原因不明である。