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安全ピンを食ってはいけない、ということを言い換えれば。。。

すべてにおいて自由であることは、すばらしいことだ。

だが、なんでも、どうでも、ほっとけばよい、ということではないと思う。

もう15年以上まえのことだ。知り合いの1歳ぐらいの子が、口をもぐもぐさせいていた。

「あれ? なにかおいしいもの食べてるの? みせて?」と声をかけた。

その子は、べーっ、と舌を出して、その上には安全ピンがのっていた。

すかさず「ぎゃーっ! ぺっ、ってしないさい、ぺっ、って」と言って、安全ピンを吐き出させた。その子は、きょとん、としていた。。。

まあね。。。。安全ピンだから。。。安全だよ。。。別にいいじゃない、本人の自由なんだから。。。好きなだけあげればいいじゃない、安全ピン。。。ということには、ならないだろう。

聖書には、神から人間に対する注文がいろいろ記されていて、とくに旧約聖書の律法と呼ばれるセクション(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記の5つの書で構成されているので、五書とも)には、ぜんぶで600もの「おきて」が収められているのだが、それらは極論すれば基本は全部「安全ピンを食べてはいけないよ、あぶないからね」ということになるのではないかと思う。

別にそれは、家にある安全ピンが大切だから、一本残さず厳格に管理してやろう、というガメツイ発想から出たものではない。

あなたに、元気ですこやかで幸福で長生きしてほしいから、だから、安全ピンは食べないでね、という「愛」から出ていると思う。

今日の聖書の言葉。

いかに幸いなことでしょう 主の定めを守り 心を尽くしてそれを尋ね求める人は。
詩編 119:2 新共同訳

旧約聖書をふまえた新約聖書が、たまげるほどすごいところは、それらすべてのおきての核心部分にある「愛」を、イエス・キリストという生きた愛の人格に集約させてしまった上で、おきてそのものは、ぱーんっ、と廃棄してしまったところにある。

新約聖書の諸巻の中でもヘブライ人、つまり、ユダヤ人に向けて書かれた「ヘブライ人への手紙」には、旧約聖書の「おきて」(律法)が廃止された、という、ユダヤ人にとってショッキングな文言が記されている。この手紙がはじめて朗読される場にたまたま居合わせて、廃止という言葉を耳にしたユダヤ人の中には、卒倒した人もいたのではないか。

前の戒めが弱く無益なために廃止されました。律法は何一つ完全なものにしなかったからです。
ヘブライ人への手紙 7:18 聖書協会共同訳

異邦人を読者に想定して書かれた「エフェソの信徒への手紙」でも、これと同様のことが言われている。

数々の規則から成る戒めの律法を無効とされました。
エフェソの信徒への手紙 2:15 聖書協会共同訳

文字で書かれたすべてのおきてを廃止して、それらすべてのおきての心臓にある「愛」だけを、イエス・キリストの生涯と十字架と復活をとおして、永遠のおきてとして輝かせているのが、新約聖書なのだ。そこでは、あたらしい、ただひとつの戒めである「愛」が、キリストのかたちになって、光っている。

イエス・キリスト自身、言っている。

あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
ヨハネによる福音書 13:34 聖書協会共同訳

仮定のはなしだが、もしあなたが、安全ピンを食べたくなったら。。。あるいは、他人にこっそり安全ピンを食べさせたくなったら。。。。その誘惑に抗するために自分に言い聞かせることは、これである。

たいせつなのは、愛だろ、愛? 自分をだいじにしろ。他人をだいじにしろ。。。それが愛だろ? 愛がすべてだろ? 愛以外に何があるんだ?


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