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人はパンだけで生きるのでなく、物語で生きる

人はパンだけで生きるのでなく、物語で生きる。。。

NetflixのCMに出て来そうなコピーだけど、たべものに対する飢えと同時に、物語に対する飢えが、人間にはあると思う。

わたしたちの小さな日常は、一瞬で新鮮さを失って、古びていく。ありきたりのものとなった個々バラバラに存在する出来事が、無数の断片になって、過ぎて行く。たまには、断片と断片を組み合わせて、意味を作り出そうと試みるけど、そんなことが器用にできる技量は、不足しているよね。

だから、小さな日常の出来事を便利に「再生」させてくれる、力のある物語が、必要とされているのだ。

道ですれ違って、あれっ、この人、どっかで会った?  ふりかえると、向こうもふりかえって、こっちを見ているから、そこで「君の名は?」と問うわけだけど、こんな小さな出来事が出来(しゅったい)するためには、その背後に、何万年もの膨大な物語によってしか描写できない、世界の隠れた構造が存在しているのだ。。。そういうことを言おうとしているのが、深海誠監督の映画『君の名は』だろうと思う。

ああいう映画を見たあと、その物語が持つ力は、日常に浸食力を持って入り込んでくるから、目にする、お茶碗やコップ、ドアの取っ手や階段の手すり、通りの猫やイチョウの木、山手線の架線や自販機のゴミ箱が、まるで、よみがえったみたいに、輝きを取り戻す。

この小さな日常の出来事は、世界の隠れた構造が結晶させた、たいせつな意味を持つシンボルなのだ! という手前勝手な思い込み。。。それが、まあ、持続できる時間というのは、せいぜい75分間ぐらい。。。長くて2日半ぐらいだろうかね。。。物語が持つ力は、残念ながら、一過性みたい。。。

そうなのだ。物語もまた、古びていってしまう。たとえそれが、力ある物語であっても。。。だから、わたしたちは、つねに、新しい物語を求めて行くのだろう。。。

今日の聖書の言葉。

口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
ローマの信徒への手紙 10:9 新共同訳

わたしはイエスさまを信じます。。。イエスさまの十字架と復活を信じます。。。だから、声に出して言います。。。「イエスは主です!」

感じる心と、しゃべれる口があれば、だれでもできる、この簡単で単純な行為。。。

でも、今この瞬間、自分にそれができる、という「こと」を成り立たしめるために、その背後には、やっぱり、何万年もの膨大な物語によってしか描写できない、世界の隠れた構造が存在しているんだ。その構造を、まるまる一冊で描ききっているのが「聖書」だ。

その聖書の物語を、自分の物語として、限界のある言葉で、言いかえてみるとしたら。。。

神は、わたしたちを祝福するために、祝福の源としてアブラハムをお選びになりました。アブラハムは神の御言葉に従って、故郷を離れ、親族を離れ、行き先を知らないで約束の地に向かって旅立ちました。約束の地に入ったアブラハムは、足の裏一片ほどの土地も得ていないのに、神が死者の中からイサクをよみがえらせて、その子孫を海の砂・空の星のように増え広がらせ、地を受け継がせてくださることを、何一つ証拠を見ないで信じました。アブラハムは「見ないで信じる信仰の従順」のゆえに、神の御心の完全な満足となり、義とされました。それゆえ神はイサクの命を救い、イサクの代わりに神ご自身を焼き尽くすいけにえとして、アブラハムにお与えになりました。すなわち神は、モリヤ山、いまのエルサレムで、神ご自身を焼き尽くすいけにえとしてお与えになり、ご自分のひとり子イエス・キリストの十字架と復活を通して、限りない聖霊の注ぎをアブラハムとその子孫にお与えになりました。こうしてアブラハムとイサクおよびその子孫であるイスラエルの民は、生まれながらにして聖霊に満たされた「聖なる者」となり、彼らは聖なる者であることのしるしとして割礼を身に帯びました。しかしアブラハムは、サレムでメルキゼデクに十分の一をささげて、自分の身から出たレビの祭司権よりも、メルキゼデクの祭司権が永遠に優位することを証ししました。イエス・キリストは詩編110編で宣言されているとおり、父なる神によって永遠にメルキゼデクに等しい大祭司として立てられた方であり、ヘブライ書の記者もそのことを証ししています。ヘブライ書で証しされているとおり、神の栄光シェキナーであるイエスは、ご自身を密雲で覆い、シナイ山に降り、天使たちをとおし、仲介者モーセをとおして、律法をイスラエルの民にお与えになりました。それでイスラエルの民は、律法に記されたすべての祝福とすべての呪いの下に置かれました。まことに彼らがエリジム山とゲバル山に分かれて立ち、祝福と呪いを自らの上に宣言した通りです。神の栄光シェキナーであるイエスは、律法の下に女からお生まれになり、律法に記されたすべての呪いと、律法に記されていないすべての呪い、すなわち全宇宙の呪いを一身に引き受けて、呪いの木の十字架につけられました。まことにパウロがガラテヤ書で証ししている通りです。イエスは三日目に死者の中から復活し、復活することによって陰府の力を打ち破り、陰府の力を打ち破ることによって死の力を打ち破り、死の力を打ち破ることによって呪いの力を打ち破り、呪いの力を打ち破ることによって罪の力を打ち破り、罪の力を打ち破ることによって裁きの力を打ち破り、裁きの力を打ち破ることによって天使たちと諸権力とを打ち破られました。こうしてコロサイ書に証しされているとおり、位・主権・支配・権威・サタンは打破され、武装を解除され、丸裸にされて、キリストの勝利の凱旋の行進に、さらしものとして加えられました。だれでも心の中でイエスの復活を信じ、口でイエスを主と告白するならば、イエスに結ばれて、位・主権・支配・権威・サタンの支配から解放され、裁きから解放され、罪から解放され、呪いから解放され、死から解放され、陰府から解放され、陰府の終局である永遠の地獄から解放されて、ただ祝福の下に置かれます。なぜなら、すべての祝福は、父なる神から直接に、無媒介的に与えられているからです。父なる神は、ご自分が祝福しようと思う者を祝福し、ご自分が恵もうと思う者を恵まれます。祝福することは、ただ神の主権(エクスーシア)によることだからです。しかし神はその主権を、ご自分のひとり子イエスにおゆだねになりました。ヨハネ14章で「御父はすべてを御子にゆだねられた」と証しされており、マタイ28章で「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」とイエスご自身が証しされているとおりです。イエスはその権能(エクスーシア)を、マタイ10章にあるとおり、弟子たちにお委ねになりました。わたしたちは、父なる神がイエスを死者の中から復活させられたと心の中で信じ、口で「イエスは主です!」と告白し、イエスの弟子とされましたので、イエスから委ねられた権能を用いて、自分と隣人と世界を祝福するために祈ります。父なる神様。どうか自分と隣人と世界のすべての人々を祝福し、その霊を祝福し、魂を祝福し、心とからだ、家族と家庭、健康と経済、仕事とミニストリーを祝福し、ひとりひとりの心の望みと願いを、あなたがことごとく実現して、あなたの大いなる栄光を拝させてください。今日ひとりひとりが手をつけて行うすべてのわざを、あなたがことごとく祝福し、成功させ、繁栄させて、あなたの大いなる御名をあがめさせてください。世界のすべての子どもたちが、今日あなたから知恵の賜物、知識の賜物を授けられ、その学業が祝福され、あなたの栄光がほめたたえられますように。あなたがソロモン、ダニエル、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤ、すなわち、コヘレト、ベルテシャザル、シャデラク、メシャク、アベデネゴにお与えになった知恵の賜物、知識の賜物を、すべての子どもたちに与えて、子どもたちが今日、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、精神を尽くして、主なる神を愛し、また、自分を愛するように、隣人を愛することができますように。あなたが今日、イスラエルの民を特別にかえりみ、神のひとみを守るように、イスラエルの民をお守りくださいますように。また、イサクの兄弟であるイシマエルのすべての子孫を祝福してくださいますように。あなたがエルサレムに平和を回復してくださり、世界のすべての民がイスラエルの民と共に、神殿の丘に自由に出入りして、だれからも妨げられることなく、いつでもあなたを礼拝し、賛美し、祈りをささげることができるようにしてください。こうして、イスラエルの民が過越祭のたびに唱える「来年こそエルサレムで!」という祈りと願いが、あなたによってすみやかに実現され、イスラエルの民の長い捕囚の時が完全に終わらされて、あなたの大いなる栄光が全世界にあらわされますように。イエスの御名によって祈ります、アーメン。

。。。すいぶん長くなってしまったけど、聖書には上記のもとになる膨大な物語が圧縮されずに書かれているので、電話帳みたいなボリュームになっている。

この物語は、ほんとうに古い物語だ。そのページには、何千年にわたる、何億人もの手垢がついてる。

でも、この物語は、新しい物語だ。なぜなら、世界は、いまもこの物語に沿って進んでいる(ように見える)から。

この物語は、自分の小さな日常の出来事に、輝きを取り戻させてくれる。なぜなら、あの「イエスは主です!」という短い言葉を自分の口で述べたことによって、自分自身がこの物語のなかに、がっつりはめこまれているから。



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