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祈るときには。。。

クリスチャンとして「ひとまえ」で、声を出して祈らなければならない場面、というのは、結構ある。

自分が所属している団体では、会議のはじまりと、おわりに、かならず祈るけど、その祈りの順番が回ってきたりする。

そういうときには、なんというかね。。。スピリチュアルな種類の誘惑があるよね。どういうことかというと、うまいこと、感銘をあたえるような言葉を紡ぎ出して、かっこよく祈りの言葉を放って、その場の空気感を変えてやろう、みたいな。。。ほんとうに、あさましい考えだけど、そういう誘惑。

だからねー、ある会議のとき、聖公会の信者さんが、祈りを頼まれて、わかりました、と、おもむろにバッグから祈祷書をとりだして、その中から特祷(コレクト)をひとつ選んで、唱えたときには、あー、教会の歴史と伝統という分厚いリソースに頼ることができる人は、自分の了見や考えで即席祈祷をしなくても、いいのだな、と不思議な感銘をおぼえたっけ。聖公会には『聖公会祈祷書』というのがあり、カトリックには『教会の祈り』(時課)というのがある。

かといって、自分の属している流れは、基本、即席祈祷オンリー。なので、まさかねー、公然の祈りの場で、祈祷書を参照するわけには、いかない。

古代ユダヤ教の社会では、律法の解釈の専門家であるラビたちが、人々の霊的指導者として立ち、立派で荘重な祈りを、それこそ「ひとまえ」で捧げていた。そこに、飄然とあらわれたイエス・キリストは、ラビたちの祈りの姿勢を、批判した。神にむかって祈っているのではなく、人に自慢するために祈っているのだ。。。という批判。

イエスがした、こういう批判(そのほかにも、イエスはラビたちを、いろいろ批判している)は、当然、ラビたちの怒りを買うことになり、ついにイエスは、命を狙われるようになってしまう。その結果が十字架だけど。。。

「ひとまえ」で祈るんではなく、隠れたところにおられる神に、ひとりでむき合いなさい、とイエスは教えさとした。その文脈のつづきのなかでの、今日の聖書の言葉だ。

今日の聖書の言葉。

だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
マタイによる福音書 6:6 新共同訳

こんな時、あるよね。。。ここには、自分しかいない。。。ひとりぼっちだ。。。だれも見ていない。。。こんな場所で、こんなわたしを、神が見ているわけがない。。。孤独だ。。。こんな自分、だれにも見せられない。。。

でも、そういう感じ方、考え方が、そもそも根本的に間違いであることを、イエスは指摘したんだ。なんと、神は、「隠れたところにおられる神」だ、と言うのだ。さすがに、ここには神はいないだろう、と、わたしたちが思う、まさにその瞬間、その場所こそ、ドンピシャ、神がいる場所だ、という革命的宣言。

そして、これは、ありのままの自分、素の自分で、神の前に出ろ、ということでもあるんだ。

「ここには、自分しかいない。ひとりぼっちだ。だれも見ていない。こんな場所で、こんなわたしを、神が見ているわけがない。孤独だ。こんな自分、だれにも見せられない」という精神状態のときにこそ、すべての装飾物をはぎとられた、素の自分、はだかの自分がいるわけだ。それは、稀有なときで、まさにその瞬間、その場所に、神がいるのだから、その素の状態のままで、神に向き合いなさい、とイエスは言う。

すると、当然のことながら、素の自分、はだかの自分は、無力なので、いったいどんな祈りの言葉を紡ぎ出したらいいのか、皆目わからない、ということになる。。。

だから、ありがたいことに、ほんとうにありがたいことに、イエスは「このとおりに祈ればいいんだよ」と、祈りの言葉まで、示してくれている。

だから、こう祈りなさい。

天におられるわたしたちの父よ、
御名が崇められますように。
御国が来ますように。
御心が行われますように、
天におけるように地の上にも。
わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
わたしたちの負い目を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を
赦しましたように。
わたしたちを誘惑に遭わせず、
悪い者から救ってください。

マタイによる福音書 6:9-12 新共同訳

ありがとう、イエスさま。では、ちょっと、行ってきます。。。


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