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声に出して、読んでみる

本を読むとき、黙読でよむのが普通。だけど、大昔は、だれもが音読していたのだそうだ。なんでか、わからないけど、そもそも、声を出さずに本を読む、という概念が、なかったみたい。

古代世界で初めて「黙読」をやったのは、ミラノの司教、アンブロシウスだった、と、最後の古代人のひとり、ヒッポのアウグスティヌスが言ってる。

アンブロシウスは、イタリア・ミラノの高位の官僚で、クリスチャンではなかった。。。のだけど、市内のクリスチャンたちが、アタナシウス派とアリウス派に分かれて抗争していたため、市民たちに請われて、調停役を務めた。その調停の手さばきが、あまりに見事だったことと、みんながほれぼれするキャラクターだったことから、「アンブロシウスさん、あんたがミラノの司教になってくれ!」と市民たちに頼み込まれた。「いや、いや、待ってくださいよ、おれ、クリスチャンじゃないんですけど? 無理でしょ?」と焦ったアンブロシウスは、必死に逃げた。けど、逃げ切れず、観念して、引き受けることにした。。。しかし、そもそも彼はクリスチャンじゃなかったので、まず、洗礼を受け、次に、司祭に叙階され、それから司教に、というステップを超特急で踏んで、ミラノの司教になった。

アンブロシウスは詩人でもあり、友人の洗礼式のとき、インスピレーションのまま即興でうたった讃美歌が、今にいたるまで教会の祝祭日にかならずうたわれる「テ・デウム」という歌として、伝えられている。

そのアンブロシウスが、古代人として初めて「黙読」したらしいんだけど、それを記録したアウグスティヌスが司教をつとめた町、北アフリカのヒッポは、ゲルマンの蛮族の手で陥落し、それから間もなく、古代世界は終焉。滅亡後の世界では、修道士たちが、貴重な書籍をかかえて、山の上の修道院に避難した。そこから千年以上、また「音読」がメインの世界に戻っていったらしい。

本を「音読」する、という習慣は、なんと18世紀まで続いた。なぜ音読メインが、かくも長く続いたかというと、そもそも本を所有できたのは、幸運にも財に恵まれ、高価な本を私的に所有できる人に限られていたから。そういう人は、邸宅に個人の図書室を持っていて、だれにも気兼ねなく音読できたんだ。

ところが、19世紀になると、産業革命に対応した社会政策のひとつとして、公共図書館が出現した。公共図書館は、個人の図書室と違って、みんなの共有空間であるわけだから、音読することが、はばかられた。そこからわずか100年のうちに、急速に「黙読」がメインの世界へとシフトして、現在に至っているのだ。

なのでねー、自分も、聖書を読むときは「黙読」がデフォルトだ。でも、そもそも黙読しなきゃいけない、特別な理由があるわけではないんだ。

今日の聖書の言葉。

いかに幸いなことか 神に逆らう者の計らいに従って歩まず
罪ある者の道にとどまらず 傲慢な者と共に座らず
主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人。
詩編 1:1-2 新共同訳

主の教え。。。聖書の御言葉を、昼も、夜も、口ずさむ。声に出して、唱え続ける。いつも、いつでも、ずっと。。。旧約聖書と新約聖書が書かれた当時は、すべて「音読」だったはずなんだよね。

このコロナ禍で、仕事は在宅勤務で、ずーっと部屋にこもりきり。。。ということは、聖書を「音読」してみる、良い機会かもしれないねー。

電車やバス、職場やスーパーで、四六時中ぶつぶつ何か唱えていたら、「気持ちの悪い人っ」って、思われてしまう。

でも、どうせ部屋にこもっているなら、声に出して、聖書を読んでみたら、どうだろう。


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