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個別から普遍に如何に接続するかという問題。

自分の小さな日常を、どうやって普遍に接続するか、という課題を、人間はずーっと、有史以前から今にいたるまで、やり続けているよなあ、と感じる。

なんだろう。。。個別から普遍へ到達したくてしょうがない、人類歴史の駆動力みたいなものが、あるよね。

自分の箸の上げ下ろしが、宇宙とつながっている、みたいな感覚を得ようとせずにいられなくさせる、心の中の抑えがたい衝動、とでも言うのか。

その駆動力って、どっから由来しているの? という問いに対しては、それぞれの世界観の人たちが、それぞれの考えを述べている。

ヘーゲルは「宇宙理性」みたいなのを想定してて、それが人間の理性を通して歴史の中に展開して来るんだ、という説明をしている。

で、かなり宗教っぽい「宇宙理性」をバッサリとカットして、「歴史の中に展開して来る」というところだけ拾い上げて使おうとするのがマルクスだ。

自分はクリスチャンなので、ヘーゲルの宇宙理性は非人格的存在だから、寂しいよな、と思う。だって、そういう宇宙理性に向かって祈るってことは、冷たい冷蔵庫に向かって喋るようなものじゃない? なぜって、自分は少なくとも人格的存在なんだから。

マルクスについては、モノが自己展開して歴史を動かす、っていうところが、ヤカンや火鉢や雨傘の妖怪が闊歩する百鬼夜行の世界観みたいだよなあ、と思ってしまう。まあ、そういう意味で「物神化」ってことをマルクスが言ったんじゃないことは、わかってるけどさ。。。

今日の聖書の言葉

主よ、あなたはわたしの神
わたしはあなたをあがめ 御名に感謝をささげます。
あなたは驚くべき計画を成就された
遠い昔からの揺るぎない真実をもって。
イザヤ書 25:1 新共同訳

宇宙の歴史を計画し、個別から普遍へと進む人間の歩みを動かしているのは、神だ、と聖書は言っている。そして、その計画は、神学的には「救いの歴史」と呼ばれている。

救いの歴史は、アブラハムという大昔の族長とその家族からスタートしていく。スタート時点で、「アブラハムの子孫によって全人類が祝福される」という、計画の最初の一歩が、神によって宣言されるんだ *¹。

これって、個別(アブラハム)から普遍(全人類)へ、いきなり、しかも、おもいっきり、ぶっこんでるよね。ぶっこみ具合が、すごい。。。

そのアブラハムの子孫は、飢饉を生き残るためにエジプトに移住するんだけど、そこで人口200万人ぐらいの大所帯になっていく。ここでねー、大問題が起きるんだ。。。200万人が、そのまま普通に生活してたら、現地のエジプト人と混じり合って、個別性を失ってしまうことになる。これだと、個別から普遍への到達は、できないんだよね。単なる、個別性の解消になっちゃう。

そこで、アブラハムの子孫は、エジプトを脱出し、シナイ山で神から「律法」を授けられることによって、「契約共同体」という新しい個別性を獲得することになるんだ *²。

この律法には「贖罪の犠牲」と「聖なる生活」について、細かい規定が書かれている。そして、律法を受け取ったアブラハムの子孫は、すっごい強力な個別性を持つことになるんだ。おかげで、彼らは世界に離散して行った先でも、周囲の民族と混じり合うことなく、個別性を失わずに、数千年を生き延びることができたんだ。

でも、こうなると、強すぎる個別性のために、普遍への道のりが遠ざかってしまうことになるんだよね。。。

ここを、いっきにジャンプさせようとするのが、新約聖書だ。この野心的なプロジェクトを、新約聖書はつぎのように実行する。

まず、救いの歴史のスタート地点、「アブラハムの子孫によって全人類が祝福される」という宣言にもとづいて、アブラハムの子孫であるイエス・キリストが到来するんだ *³。

次に、律法に規定された「贖罪の犠牲」にもとづいて、イエス・キリストが自身のからだを犠牲として十字架でささげる。重要なのは、新約聖書が、イエスは神だ、と主張していることだ。この事実により、神の命が持つ無限の価値によって、全人類の過去・現在・未来のすべての罪に対する代価が一回で支払われたことになる。それが贖罪だ *⁴。こうして、個別(イエスの犠牲)が普遍(全人類の救い)に、直結する。

そして、贖罪にもとづき、イエス・キリストは人間に聖霊を注ぐ。聖霊に満たされた人間は「聖なる生活」を始めることができるようになる。興味深いのは、この聖なる生活は、もはや、律法の細かい規定を守って生きることでは、ないんだ。新約聖書では、律法の細かい規定は、すべて「神への愛と隣人への愛」として要約される。そして、ひとりひとりの人間は、聖霊に満たされることによって、愛を実践していく。そういうかたちで「聖なる生活」を生きていくんだ *⁵。問題は、じゃあ、隣人とは誰か? ということなんだけど、新約聖書は、隣人とはすべての人間だ、という立場を取っている。こうして、個別(個人の生活)が普遍(神への愛と隣人への愛)に、直結することになる。

以上の流れをふまえて、いちばん最初に戻ると、個別から普遍へと駆動する原動力は何なの? という問いに対しては、それは、わたしの心・あなたの心に宿っている「聖霊」だよ、ということになるんだ。

註)
*1.  Cf. 創世記 22:18
*2.  Cf. 出エジプト記 19:18ff
*3.  Cf. マタイ 1:1ff
*4.  Cf. ヘブライ 10:10-18
*5.  Cf. ローマ 5:5


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