#999 シングラ・センペル・レフォルマンダ、っていう話です。
世界にはいろんな教会があるけれど。。。
教会の聖職者がどういう服装をしているかを見ると、その教会が歴史的にいつ頃うまれたのか、ってことが、なんとなーく推測できるんだよね。。。
たとえば、ローマカトリックの神父さまが来ている祭服っていうのは、古代ローマ時代に紳士が来ていたフォーマルウェアに由来している。
なので、あー、古代ローマ時代に生まれた教会なのねー、ってことになる。
あるいは、アーミッシュやフッター派が着ている服装をみると、16世紀ぐらいの農民のスタイルをとどめているし。。。
牧師がアロハにジーンズにサンダルでペットボトル片手に説教するような教会は、やっぱり20世紀後半に生まれた教会だよね。。。
今日の聖書の言葉。
それらの教会はどれも従来のスピリチュアリティーを改革するパッションに燃えたひとたちによって設立されたわけだけど。。。
だから、その「改革」を断行した時点での社会の最新の服装を礼拝用のウェアとして採用したんだよね。。。
でも、興味深いことにその後の教会のあゆみのなかで、やっぱりトラディションみたいなものが形成されて行って。。。
そうなると、礼拝用のウェアはアップデートされずに、同じスタイルがキープされ続けたんだと思う。
だとすると、いま最新の服装を採用している教会。。。アロハにジーンズにサンダルにペットボトルにiPadみたいな教会は、千年後も同じスタイルをキープしていることになり、それを見た未来人は、あー、いまなお古代の伝統を守っているんですねー、ってコメントするのかもしれない。あくまで個人の推測です。
そういうトラディションって、どういうふうに形成されるんだろう、ってことを考えるんだけど。。。
それってやっぱりクリスチャンが日曜日がめぐり来るごとに礼拝をする、っていう毎週毎週の積み重ねがトラディションを作っているんじゃないのかなー、って思う。
っていうのは、毎週やってると、参加者全員が自然に共有する共通の「所作」みたいなものが、できてくるじゃん?
まあ、具体的にどういう所作があるのか、ってことについては、膨大なリストになるので、サクッと略(笑)
そういう所作がトラディションになる瞬間っていうのがたぶんあって。。。
それは、共有された所作と違う所作をだれがが「やらかした」ときに、みんなが感じるザラッとした違和感みたいなものなのかもしれないねー。
そういう違和感は苦情やクレームというかたちで礼拝のリーダーに伝えられることになり。。。
そうなれば教会会議だ。で、熟考を経て、わたしたちの教会では「これ」を決まった所作とする、っていう決議がなされて、晴れてトラディションの誕生だ。
トラディションが確立されたら、あとはそれを維持しながら回し続ける、っていうことになる。
ある意味でそれはラクなことなんだよね。
だって、決まったパターンを繰り返して行けばいいわけだから。
そして、それは安心感もあたえてくれると思う。いつでも同じ、慣れ親しんだものがそこにある、っていう安心感だ。
ところがね。。。
こっから先が考えなきゃいけないポイントだと思うんだけど。。。
聖書が言ってることをまじめに受け取るならば、古い自分はキリストと共に十字架につけられて、キリストと共に死んで、キリストと共に復活した新しい自分にされているんだよね *。
これが、どれぐらいのフリークエンシーで生起するかっていうと。。。
毎週どころじゃあない。毎時間、毎分、毎秒、毎瞬、ガラガラポンが起きている、ってことになるんだ。
それはつまり、自分の好み・自分の考え・自分の立場・自分の主張・自分のメンツ・自分の利害・自分の願望・自分の気分・自分の感情・自分の執着・自分の計画・自分の~っていうものが、ぜーんぶキリストと共に十字架につけられて、死んで、消えて、なくなって、で、キリストと共に復活した新しい自分になる。それが毎瞬起こる、ってことだ。
だとしたら、神の言葉によって改革され続ける教会(Ecclesia reforma semper reformanda)を超えた、神の言葉によって改革され続ける個人(Singula semper reformanda)になるはずだよね。
だから、さーっ、あたらしい一日を生きるぞー、ってならなきゃいけないはずなんだけど。。。いまこの瞬間あたらしい世界に降り立ったばかりの、あたらしい人間としての自分!!!
でもねー。。。やっぱり今日も同じものを食べて、同じ服を着て、同じ行動をしてしまう。。。
もっと真剣に聖書の言葉を読むしかないねー。
初めからのことを思い出すな
昔のことを思いめぐらすな
註)
* Cf. ローマ 6:6, ガラテヤ 2:20
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