苦しいことは苦しいし、嫌なことは嫌じゃん、っていう話です。
子どもの頃に「いじめ」を経験した身から言うと、この世界には苦しみという要素がデフォルトで組み込まれているよな、という感覚が根付いてしまっている。
生きていて苦しいだけなら、これ以上は生きない、という選択肢も検討に上がるだろうし、中学生の時にはそれを真剣に考えたりもした。
けれど、自分の場合はむしろ、なぜ世界には苦しみがあるのだろう? という宗教的な探求に向かって行ったことで、生き続けることになっている。
その探求というのは、オカルトから仏教を経由してクリスチャンになることで現在にまで至っているわけなんだけど。。。
今日の聖書の言葉。
オカルトでは、この世界のあらゆる事物や経験には神秘的な意味があって、それは快も苦もふくめてすべてだ、という視点が提供されていた。
どういうことかと言うと、いま目の前で見ている苦しいことは、存在の神秘のベールを外されることで、まばゆく光り輝く本性を開示することになるから、早合点せずに忍耐深く開示の時を待て、というメッセージになる。
仏教では、この世界のあらゆる事物や経験は幻影に過ぎず、それらの幻影を生成している自分の認識すらも幻影だ、という視点が提供されていた。
どういうことかと言うと、いま目の前で見ている苦しいことは、ぜんぜん実体のないものであり、それは快にも苦にも変転して終わりがないのだから、そんなものに支配されるな・とらわれるな、というメッセージになる。
クリスチャンの場合には、この世界のあらゆる事物や経験は「神」の愛のなかで完成へと進み続けていて、そのプロセスは十字架を経て復活に至るというものであるから、いま目の前で見ている苦しいことを自分の十字架として担うことによって、復活の栄光に到達せよ、というメッセージになる。
結果としてなぜ自分がクリスチャンの世界観を選んだのか、ということについては、自分でもよくわからないのだけれど(自分的には「神」がそうするように自分を選んでくれたからと解釈するようにしている)
あえて理由を考えてみるなら、たぶん、苦しいことはやっぱり、どう考えたって苦しいじゃん、っていう単純な考えによるのかもしれないと思う。
だって、この苦いやつの薄皮をぴろーっと剥がすと甘いやつが出て来る、ほんとは甘いんだよ、って言われても、いまはとりあえず苦いとしか感じないわけじゃん。
あるいは、この苦いやつは3分後には甘くなるかもしれないし、でもまた5分後には苦くなるかもしれないし、どうにでもなる、って言われても、やっぱり、いまはとりあえず苦いとしか感じないわけじゃん。
苦しいことはどう逆立ちしても苦しいし、悲しいことは斜めから見ても悲しいし、つらいことは裏側からながめてもやっぱりつらい。ねえ、自分。。。
その救いようのない苦しさ・悲しさ・つらさを、でも、そっくりそのまま自分の十字架として担って行くなら、やがて世界の終焉・歴史の完成の地点において復活の栄光に至る、って考えた方が、まだ自分的には納得できやすいんじゃないか、と思う。
もし、わたしたちがキリストと一体になって
その死の姿にあやかるならば
その復活の姿にもあやかれるでしょう *
まあ、でも、それが、ほんとうにそのようになるかは、世界の終焉・歴史の完成の地点まで行かなければ言えないことではあるんだけれど。。。
しかし、その地点に到達する前段階の「今日」においては、御祖師様(ジョン・ウェスレー)の次の言葉を部屋に貼って、静かに耐え忍びたいと思う。
註)
* Cf. ローマ 6:5
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