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苦しいことは苦しいし、嫌なことは嫌じゃん、っていう話です。

子どもの頃に「いじめ」を経験した身から言うと、この世界には苦しみという要素がデフォルトで組み込まれているよな、という感覚が根付いてしまっている。

生きていて苦しいだけなら、これ以上は生きない、という選択肢も検討に上がるだろうし、中学生の時にはそれを真剣に考えたりもした。

けれど、自分の場合はむしろ、なぜ世界には苦しみがあるのだろう? という宗教的な探求に向かって行ったことで、生き続けることになっている。

その探求というのは、オカルトから仏教を経由してクリスチャンになることで現在にまで至っているわけなんだけど。。。

今日の聖書の言葉。

キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい。
ペトロの手紙一 4:16 新共同訳

オカルトでは、この世界のあらゆる事物や経験には神秘的な意味があって、それは快も苦もふくめてすべてだ、という視点が提供されていた。

どういうことかと言うと、いま目の前で見ている苦しいことは、存在の神秘のベールを外されることで、まばゆく光り輝く本性を開示することになるから、早合点せずに忍耐深く開示の時を待て、というメッセージになる。

仏教では、この世界のあらゆる事物や経験は幻影に過ぎず、それらの幻影を生成している自分の認識すらも幻影だ、という視点が提供されていた。

どういうことかと言うと、いま目の前で見ている苦しいことは、ぜんぜん実体のないものであり、それは快にも苦にも変転して終わりがないのだから、そんなものに支配されるな・とらわれるな、というメッセージになる。

クリスチャンの場合には、この世界のあらゆる事物や経験は「神」の愛のなかで完成へと進み続けていて、そのプロセスは十字架を経て復活に至るというものであるから、いま目の前で見ている苦しいことを自分の十字架として担うことによって、復活の栄光に到達せよ、というメッセージになる。

結果としてなぜ自分がクリスチャンの世界観を選んだのか、ということについては、自分でもよくわからないのだけれど(自分的には「神」がそうするように自分を選んでくれたからと解釈するようにしている)

あえて理由を考えてみるなら、たぶん、苦しいことはやっぱり、どう考えたって苦しいじゃん、っていう単純な考えによるのかもしれないと思う。

だって、この苦いやつの薄皮をぴろーっと剥がすと甘いやつが出て来る、ほんとは甘いんだよ、って言われても、いまはとりあえず苦いとしか感じないわけじゃん。

あるいは、この苦いやつは3分後には甘くなるかもしれないし、でもまた5分後には苦くなるかもしれないし、どうにでもなる、って言われても、やっぱり、いまはとりあえず苦いとしか感じないわけじゃん。

苦しいことはどう逆立ちしても苦しいし、悲しいことは斜めから見ても悲しいし、つらいことは裏側からながめてもやっぱりつらい。ねえ、自分。。。

その救いようのない苦しさ・悲しさ・つらさを、でも、そっくりそのまま自分の十字架として担って行くなら、やがて世界の終焉・歴史の完成の地点において復活の栄光に至る、って考えた方が、まだ自分的には納得できやすいんじゃないか、と思う。

もし、わたしたちがキリストと一体になって
その死の姿にあやかるならば
  その復活の姿にもあやかれるでしょう
*

まあ、でも、それが、ほんとうにそのようになるかは、世界の終焉・歴史の完成の地点まで行かなければ言えないことではあるんだけれど。。。

しかし、その地点に到達する前段階の「今日」においては、御祖師様(ジョン・ウェスレー)の次の言葉を部屋に貼って、静かに耐え忍びたいと思う。

すべての執着を捨て、神にゆだねている心は、この世界に起こるすべてのこと(罪を除いて)を意志され、実行される神の御心全体と徹底して一つとなっている状態の中にある。

そのために私たちは、良いことも悪いことも、すべての出来事を神の御心として受け止めなければならない。

正しい人に、天からでも地からでも降りかかる最大の患難の中にあって、彼らは依然として平安のうちに、不動のままである。神をひたすら愛することによって、たましいの諸能力をすべて一つにまとめることによって、神に完全に従い続ける。

どんなことが降りかかってこようとも、私たちは静かに忍ぶべきである。他者の欠点も自分の欠点も担って、そっと祈りの中で、時には言葉にならない深いうめきと共に、神に告げなさい。しかし、決して鋭い批判めいた言葉で語ってはならない。つぶやくことも不平を言うこともならない。神が望まれる方法であなたを取り扱われるようにと、徹底的に熱望しなさい。私たちは神の小羊であり、それゆえ、死に至るまでも、不平を言わずに苦難に甘んじる覚悟でいるべきである。

ジョン・ウェスレー

ジョン・ウェスレー、藤本 満訳『キリスト者の完全』(原著1777年刊) インマヌエル綜合伝道団出版局、2006年刊、pp.238-239.

註)
*  Cf. ローマ 6:5

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