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怒りが同時に赦しであるような地点

共同生活の中で、うっかり地雷を踏んで、怒りをあびせられる、ということは、あるよね。

どのポイントにふれたら、怒りをひきおこすのか。。。自分のポイントだったら、よくわかる。でも、相手の場合は「他者」だからねー。他者とは、自分と異質であって、完全には理解できない存在。。。なぜって、他者だから。。。なので、怒りのポイントが、どこにあるかは、長く一緒にいたとしても、わからないことがある。踏んでみないと、わからない、という意味で、まさに地雷だ。

人生に悪があるのは、万人の共通認識だろう、と前に書いた。

人生で出くわす「悪」の正体は、なんなのか、をめぐって、いろんなとらえかたがあって、それぞれに、なるほど、と思わせるんだけど、そのたくさんあるカタログのひとつであるイスラエル人、つまり、古代ユダヤ民族は、彼らの過酷な歴史の歩みの中で、これでもか、これでもか、と悲惨な境遇を経験させられて、その結果、それらの「悪」は、神の怒りの発現にほかならない、という受け止め方をするようになっていった。

その考え方が、旧約聖書に濃厚に表れている。神はイスラエルと契約を結び、両者は特別な関係に入ったので、イスラエルには祝福と繁栄が約束された、にもかかわらず、イスラエルは神に背き、契約をないがしろにし、その結果、神の怒りを招来して、イスラエルは何度も大災忌を経験し、民族存亡の危機に立たされる、というストーリーだ。

なので、古代ユダヤ人にとって、人生とは、神の祝福を経験させられる舞台と同時に、神の怒りを経験させられる舞台でもあるんだ。この世界観においては、もうね、神の怒りが、デフォルト状態のようにして、ある。

この悲しいストーリーは、わたしたちの人生のリアリティに、時々かぶる。わたしたちも舞台の上で、甘美な経験ばかりしてるわけではないから。知らずに地雷を踏んでしまう経験。コントロール不能な苦しい境遇に放り込まれる経験。沼にはまりこんで身動き取れない経験。。。これって、神の怒りなの? と思ってしまう。

でも、ストーリーは、そこで終わらない。上記のような世界観に立脚しながら、しかも、上記の世界観を完全にくつがえしてしまおうとする、非常に野心的なプロジェクトが、新約聖書なのだ、と自分は思う。それは、新約聖書のターミノロジーで言うと、律法に基づいて律法を廃棄する、ということなんだ。どういうことかというと。。。

神の怒りを発動させる「装置」として、旧約聖書の中に奥深く組み込まれているのが、律法だ。怒りの装置としての律法が、端的にあらわれているのが、申命記28章。そこには、イスラエルが神に背いた時に臨むとされる、ありとあらゆる呪いがリスト化されている。しかも恐ろしいのは、61節で「主はさらに、この律法の書に書かれていないあらゆる病と災いをあなたにもたらし、あなたを滅びに至らせる」と警告していることなんだ。

ここに書いてあるすべての呪いで、呪った上に、ここに書かれていない呪いでも、呪いますよ、ということ。これは事実上、全宇宙のあらゆるすべての呪いを行使して、神の怒りを発動させるぞ、ということだ(泣)

それが、あまりにもおそろしいので、新約聖書神学者の山谷省吾なんかは「悪鬼的な律法」(ガラテヤ書註解)とすら、言ってる。まあ、そう言いたくなるのは、わかるよね。そうして、この、神の怒りを発動させる「装置」としての律法は、旧約聖書の悲しいストーリーを経て、まっすぐゴルゴダの丘へ、向かって行くんだ。ゴルゴダ、それは、しゃれこうべの丘、とも呼ばれる、キリストが十字架につけられた場所だ。

全宇宙のあらゆるすべての呪いを、イエス・キリストは十字架によって、終わらせてくださった。その証拠聖句が、これ。

キリストは、私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い出してくださいました。
ガラテヤの信徒への手紙 3:13 聖書協会共同訳

神の怒りは、律法を根拠として発動されて、十字架のキリストの上に、注ぎ出された。

こうして律法は、神の怒りを発現させる役割を、果たし終えたので、廃棄されてしまう。その証拠聖句が、これ。

キリストは、私たちの平和であり、二つのものを一つにし、ご自分の肉によって敵意という隔ての壁を取り壊し、数々の規則から成る戒めの律法を無効とされました。
エフェソの信徒への手紙 2:14-15 聖書協会共同訳

このようなわけで、十字架のキリストは、神の怒りの発現のシンボルであると同時に、神の怒りの終焉、すなわち、人類に対する神の完全な赦しのシンボルでもあるという、二律背反的意味を持つことになったんだ。西田幾多郎的に言うと、絶対矛盾的自己同一。それが十字架だ。

その論理的な帰結として、わたしたちはいま、いかなる呪いも怒りもない、十字架後の新しい世界、フラット化した世界を生きている、ということになるんだ。

まあ、それは、なかなか、実感がわかない時もあるんだけど。。。特に、だれかの地雷を踏んでしまったときなんかは、ね。

今日の聖書の言葉。

御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。
ヨハネによる福音書 3:36 新共同訳


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