見えないものを、見て、生きる。
幻視者(ビジョナリー)と呼ばれるひとたちがいる。
神さまから、未来の出来事を見通せる特殊な能力を与えられたひとたち。
なんで見えるのか、と言っても、見えてしまうんだから、しかたない、という世界。
見えてしまう、というのと、類推する、というのでは、似てるようで違う。
類推は、目の前にある諸条件を見て、そこから未来がどう展開するかを、合理的に考える。いま、と、未来、のあいだに、論理的な筋道を立てて、予測するのだ。
見えてしまう場合は、過程を飛び越えて、いきなり結論が示される。だから、目の前にある諸条件から出発し、なにがどうなって、そこへ至るのか、考えても、考えても、わからない。いま、と、未来、のあいだが、ぜんぜん、つながらないのだ。
今日の聖書の言葉。
遠くから、主はわたしに現れた。 わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し 変わることなく慈しみを注ぐ。
エレミヤ書 31:3 新共同訳
エレミヤは、旧約聖書に出て来る預言者。彼は、絶望的な状況を目にしながら、よろこびと祝福に満ちた「未来」を幻視した。
第31章は、まさにそういう箇所だ。すべての望みが断たれた「いま・ここ」に立って、エレミヤは、現実離れした未来の光景を、見た。
イスラエル・ユダヤの民は、敵の手に落ち、遠い異国の地へ捕囚として連れて行かれる。エルサレムは神殿と共に、あとかたもなく破壊されて行く。その絶望と悲惨を、目の前で見ながら、それを突き抜けて届いて来るビジョンを見る。。。見させられる。。。みんな、よろこび踊りながら、戻って来るって。エルサレムも神殿も、建て直されるって。たとえ宇宙が滅んでも、イスラエル・ユダヤの民に対する神の愛は、永遠に変わらないって。
主はこう言われる。
泣きやむがよい。
目から涙をぬぐいなさい。
あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。。。
あなたの未来には希望がある、と主は言われる。。。
エレミヤ書31:16-17 新共同訳
だれが、そんなこと、信じることができるだろう?
でも、彼には、見えてしまったんだ。悲惨な「いま・ここ」から、いったい、なにがどうなって、その「未来」に、たどりつくのか。それは、わからない。
あなたの未来には希望がある、と主は言われる
わからないけれど、その「未来」を知ってしまったら、もう、絶望の中に居続けることはできくなるんだ。
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