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聖書、この不思議な本。。。

神は今日も、テレビに姿をあらわさない。記者会見を開いたりしない。事件が起きてもコメントしない。。。

世界の後背に、ずっとお隠れになっている、神。。。

。。。いや、いや、ほんとうに、そう言えるだろうか? 姿をあらわさないにしても、すくなくとも、けっして沈黙などしていないのではないか、と、いまこの瞬間、思った。

自分の机の上にある分厚い聖書。。。訳は、新改訳2017で、旧約は1635ページ、新約は519ページ、あわせて2154ページある。最低でもこの分量の内容を、神は今日、人類に語っているんじゃないか?

今日の聖書の言葉。

聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。
テモテへの手紙二 3:16 新共同訳

哲学者のヴィットゲンシュタインの考えでは、言語には限界があるから、神・世界・霊魂については、なーんにも言及できない、われわれは、ひたすら沈黙を守るしかない、ということになるんだけど、この2154ページある聖書は、もちろん、言語で書かれているうえに、神について、世界について、霊魂について、ガンガン言及しているんだ。

このことについて、聖書は、こう宣言する。

聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれた!

神は、われわれのようには制約を受けないから、神について、世界について、霊魂について、自由に言及できるはずだよね。だって、神だもん。。。

その神が、人間に接触するためのエージェントとして、聖霊(神の霊)を送り、その導きを受けた聖書記者たちが、ヘブライ語とギリシャ語で聖書を書き、それがぜーんぶ日本語に翻訳されて、いま自分の机の上に乗っている。

考えてみたら、これって、すごいことじゃない? だって、世界を創造し、人間を創造し、自分を創造した「神」が、自分に知ってほしいと思っているメッセージを持っていて、そのメッセージが現代の日本語に翻訳され、自分の目の前に、すぐ手を伸ばせば開いて読める状態になって、置かれているんだから。

紙のページに手を触れ、繰っていくと、自分に対する「神」の思い・こころを、教えられる。

教えられた結果、自分は人間として、何をしてはいけないか、戒められる。

戒められると、自分の間違った考え方・ふるまい方が、はっきりわかって、誤りを知る。

誤りを知った自分は、悔い改めに導かれる。。。イエスさま、ごめんなさい。あなたの十字架によって、わたしの罪を赦してください。。。あなたの復活によって、わたしを新しい人間に変わらせてください。。。こうして、誤りが正される。

この一連の結果として、おどろくべきことに、神は自分に100パーセント満足してくださることになる。。。神の満足。。。それが「義」だ。

神が自分に対して満足している。。。ちょっと信じられないけど。。。そのことを知ったら、もう自分は、神からも世界からも霊魂からも、ちっとも疎外されていない、ということを感じるんだ。


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