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小学1年の無神論者

自分は幼稚園がカトリック系だったので、そこでイエス様を信じた。でも、小学校に上がったら、無神論者の級友に「おまえ、キリストなんか信じてるの? キリストなんて、いなかったんだよ?」と言われ、かえす言葉もなく、その瞬間、簡単に信仰を失った。小学1年のときだ。

でも、スピリチュアルなことへの飢え渇きは持っていたから、そこからオカルト遍歴へ、まっしぐら。。。

ビリー・グラハムの後楽園スタジアムでの伝道集会で回心し、クリスチャンになったのが、中学2年。そのとき、オカルト関連は、ぜーんぶ処分した。けど、そこに至るまでの過程で、いろんな世界観に触れた。

ほんと、いろんな世界観があるもんだな、と思うんだけど、中学1年のとき読んだ本で、いまも心に残っているのは、ドイツのヴリル協会という、ナチスのヒトラーと結託したオカルト結社の世界観。有名なのが、彼らのいう「地球空洞説」だ。スゴイのは、それが、内側から見た地球空洞説ということ。どういうことかというと、いま人間は球体の空洞の内側にはりついて生きていて、それが、現世界だという。だから、太陽も天体も、空洞の中心に浮いているわけ。で、空洞の外側は、永遠に続く氷の世界。彼らはまじめにそれを信じていたので、望遠鏡で空を眺めれば、天体をつきぬけて、空洞のあちら側にはりついている敵の大西洋艦隊が見えるはずだ、と、観測を繰り返したのだそうだ。。。こりゃ、戦争に負けるわけよな。。。

もうね、アホかと。。。でも、人って、いったん特定の枠組みを信じてしまうと、すべてを、その枠組みに沿って解釈するので、なかなか、そこから出ることは、難しいんだよね。最近では、一部のクリスチャンに地球平面説というのが、じわじわ来ているみたい。。。勘弁してくれ、と思うんだけど、本人たちからしてみれば、大真面目だよね。。。

いやー、その世界観、間違ってるでしょ? と思って、親切心から、間違いを指摘してあげていた時期も、自分にはあった。。。けど、エネルギーの無駄だから、やめた。だって、基本的にひとは、自分が信奉する枠組みといっしょに心中する覚悟を持っているみたいだから。。。

今日の聖書の言葉。

この武器は、神に逆らうあらゆる高慢な議論と、人々の目から神を隠している、あらゆる壁を打ち砕きます。この武器を用いて私は、反抗する者を捕虜として神に連れ戻し、回心させて、キリストに従わせます。
コリント人への手紙Ⅱ 10:5 リビングバイブル

神の存在を否定する、あるいは、神の間違いを指摘する、ありとあらゆる議論の中でも、最強の議論は、ヨブのそれだと思う。

地球上のだれよりも敬虔な信者だったヨブだからこそ、人生の不条理を経験したとき、彼が神に向けて挑んだ議論は、聞く人の心を深く打つんだ。

そのヨブのこんな言葉を、読みなさい、と、今日の『教会の祈り』(時課)の「読書」が指定していた。こんな感じだ。

私の魂は息が止まることを選び
生きた骨よりもむしろ死を選び取りました。
私は命をいといます。
いつまでも生きたくはありません。
私に構わないでください。
私の日々は空しいのです。

人を見張る方よ、私が罪を犯したとしても
あなたに何をなしえるでしょうか。
どうして、私を標的にしたのですか。
どうして、私が私自身の重荷を
負わなければならないのですか。

今、私は塵の上に横たわります。
あなたが私を捜しても、私はいません。

ヨブ記 7:1-21 抜粋 聖書協会共同訳

自分は特に、ヨブが神に発した「あなたが私を捜しても、私はいません」という言葉に、深く心を打たれてしまう。

ヨブの言葉を聞いた、三人の親友たちは、彼らもそれぞれ敬虔な信者だったから、ヨブの信仰の最後の残り火を消させまい、と、説得につとめるんだ。親切心からしたんだよ!

でも、ヨブの心は、動かない。親友たちが、信仰的な正論を説けば説くほど、ヨブは、つらく、悲しく、苦しく、怒りと絶望に落ちていくのだ。

ヨブを説得することは、だれにもできない、とわかったとき、親友たちは、沈黙するしかなかった。

そうなんだよね。。。人間の議論を、人間の言葉が、終わらせることなんて、できないんだ。だって、火を消すために火を使うようなものだから。

ヨブのストーリーは結局、創造主である神が、ヨブの前に姿を現して、ヨブの口を封じるかたちで、終わる。

これはねー、世の思想家・文学者から、「えーっ、そんなの禁じ手じゃん? 思想と言葉の問題は、思想と言葉で決着つけなきゃ。神が登場して幕引きだったら、思想と言葉は、いらんでしょ?」と、大不興を買う点ではある。

そういう人間界の不興の声を、ぜーんぶ聞いていらっしゃったかのように、神は二度目に。。。こんどは、人間に姿を変えて、わたしたち、小さなヨブたちのところに、来てくださった。。。そして、小さなヨブたちの、なげき、怒り、叫び、呪詛、それらぜーんぶを、スポンジのように吸い込んで、ゴルゴダの十字架で、死んでくださった。。。それが、イエス・キリストなのだと思う。

いま、復活したキリストは、ひらけた、広い場所に立って、わたしたちを招いている。。。あなたがいる枠組みから出てきて、わたしと一緒に、新しい世界を生きようよ、と。

その招いている手を、ぱっとつかむことも、わたしたちにはできる。また、その招きを、またぞろ思想と言葉の問題として、永久に議論を続けることも、わたしたちには、できてしまえるんだ。


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