ひまな時間をつぶすアイテムとしての、エキュメニカルなロザリオ
コロナ禍に伴う長い自粛期間で、ずーっと家で過ごす日々。ぼうだいな時間をどう使ったらいいか、考えあぐねる人もいるかも。
2000年の教会の歴史では、ビーズを使う祈り「ロザリオ」が発達した。これは今、ほぼカトリックのものになっている。理由は、ロザリオの構成が、聖母マリアへの祈りになっているから。宗教改革後のプロテスタントのクリスチャンは、三位一体の神(父・子・聖霊)以外の「人間」を対象に祈ることは避けたので、マリアへの祈りを避けるようになり、ロザリオも使わなくなった。
しかし、ぼうだいな時間を、祈りに過ごすには、ビーズは便利。それで、エキュメニカル(キリスト教の教派間の対話を促進する動き)が進んだ1965年の第二バチカン公会議以降ぐらいから、カトリック・正教会・プロテスタントが共有できるロザリオが考案されるようになった。それが「エキュメニカルなロザリオ」だ。
これとは別に、プロテスタントがロザリオを祈る場合のやり方として、カトリックのロザリオを改変し、「アヴェ・マリア」の前半だけ唱えて、後半は言わない方法もあった。アヴェ・マリアの前半は、天使ガブリエルがマリアに告げた「あいさつ」と、洗礼者ヨハネの母のエリサベツがマリアにのべた「祝福」でできていて、いずれも新約聖書からとられている。前半だけだったら「あいさつ」と「祝福」だから、マリアを対象に祈っていることにはならない。この、前半だけ唱える方法は、マルチン・ルターと同時代の宗教改革者ツヴィングリも行っていたようだ。アヴェ・マリアの後半は、マリアに「とりなしの祈り」を願う言葉になっている。ここが、人間には祈らないプロテスタントから問題視される点だ。この後半部分が付加されてカトリックで広く唱えられるようになったのは16世紀だという。宗教改革後のことだ。
カトリックのロザリオと似ていても、祈る言葉が違う「エキュメニカルなロザリオ」は、現代のカトリック・正教・プロテスタントの祈りを共有するのが目的。なので、祈りの言葉が、最大公約数的になっている。プロテスタントと共有できるよう、マリアへの祈りではなく、「最も大切な愛の戒め」「大宣教命令」が用いられる。これらは「主の祈り」と共に、いずれもイエス・キリスト自身が福音書の中で語っている言葉だ。また、十字架のところでは、使徒信条ではなくニケア信条を唱えるのが特徴。
では、エキュメニカルなロザリオの祈り方を、紹介していこう。
祈り方
ロザリオは、普通にカトリックのロザリオと同じ、十字架と59個のビーズでできたものを用いる。59個のビーズは、最初のビーズ・三個のビーズ・節目のビーズ・十個のビーズ・二連目(節目のビーズ+十個のビーズ)・三連目・四連目・五連目・最後のビーズ、という構造になっている。なお、最初のビーズは、最後のビーズをかねているので、全部で59個になる。
祈りは、十字架からスタートし、それぞれのビーズで、祈る言葉や、唱える言葉が用意されている。また、言葉だけでなく、想像力を用いて、イエス・キリストの癒し・奇跡・顕現について「黙想」するように、黙想のテーマが用意されている。黙想は、言葉で唱える祈りに対して、想像力をはたらかせて思いめぐらす、ひとつの祈りのかたちだ。キリスト教では神を対象に聖書のテーマに沿って黙想するが、東洋の宗教のように対象を定めず「無」の境地を重んじるのは、黙想ではなく「瞑想」と呼ばれる。
十字架「ニケア信条」
十字架を手で押さえながら、ニケア信条を唱える。下に紹介するのはカトリック中央協議会が作成した現代口語訳のニケア信条だ。ニカイア・コンスタンチノポリス信条とも呼ばれるニケア信条は、世界教会の共通の信条(信仰告白)として四世紀に作られ、使徒信条やアタナシオス信条、カルケドン信条と共に大切にされている。
最初のビーズ「主の祈り」
十字架の次の最初のビーズを押さえながら、「主の祈り」を唱える。下に紹介するのはカトリックと聖公会の共通訳の主の祈りだ。
三個のビーズ「最も大いなる愛の戒め」
十字架、最初のビーズ、と続いて、三個のビーズがある。カトリックのロザリオでは、ここではアヴェ・マリアを唱えるところ。だが、エキュメニカルなロザリオでは、「最も大いなる愛の戒め」を唱える。これは、イエスご自身が最も大切な戒めとして、福音書の中で示した言葉にもとづいた祈りだ。
クリスチャンは、命がけで自分を救ってくれたイエス・キリストを、愛する。それはある意味で当然。だが、それだけではない。キリストを愛するように、自分を愛するのだ。つまり、自分を卑下せず、あきらめず、どこまでも自分を大切にする、ということ。これもまあ、わかる。しかし、それだけではない。キリストを愛するように自分を愛したあとは、キリストを愛するように家族を愛し、キリストを愛するように隣人を愛する、というのだ。つまり、今日コロナ鬱から爆発してヒステリーを起こしている家人や、スーパーのレジで社会的距離を取らずにブツブツつぶやいている変な隣人に対しても、キリストを愛するように、キリストに接するように、キリストを扱うように、扱いなさい、ということだ。一見簡単な祈りだが、超ハードコアな祈りでもある。もし、この単純な祈りがすべての人によって実現されたら、世界の問題の九割方は自然に解決するような気もする。
最初の節目のビーズ「大宣教命令」「主の祈り」
三個のビーズに続いて、最初の節目のビーズがある。最初の節目のビーズでは、イエスご自身が福音書の中で与えた「大宣教命令」と「主の祈り」を唱える。
一連目の十個のビーズ「最も大いなる愛の戒め」
最初の節目のビーズに続いて、十個のビーズがある。それぞれのビーズで、「最も大いなる愛の戒め」を唱える。それをしながら、その日の黙想のテーマに沿って、想像力を働かせながら、イエスに心を向けて行く。黙想のテーマについては、後半で紹介する。
二連目の節目のビーズ「主の祈り」「大宣教命令」
十個のビーズに続いて、二連目の節目のビーズがある。ここでは、「主の祈り」と「大宣教命令」を唱えて、二連目の十個のビーズへと進んでいく。
これをくりかえしながら、二連目、三連目、四連目、五連目と進んで行く。
一~五連のビーズでは、その日のテーマに沿って、五つの黙想をする。(黙想は「曜日ごとの黙想のテーマ」を参照)
最後のビーズ「大宣教命令」「イエスの祈り」
最後のビーズは、最初のビーズをかねている。最後のビーズでは、「大宣教命令」と「イエスの祈り」を唱える。「イエスの祈り」は、福音書の中で、取税人が罪を痛悔し、父なる神によって受け入れられた祈りの言葉として、イエス自身が紹介している非常に単純な祈りだ。
このイエスの祈りを簡略化してギリシャ語で唱えるものが、「キリエ・エレイソン、キリステ・エレイソン」(主よ、われれみたまえ、キリストよ、あわれみたまえ)だ。これは、カトリック・正教会・聖公会・ルーテル教会では、礼拝の冒頭部分で必ず唱えられる祈りとなっている。
曜日ごとの黙想のテーマ
以上のような祈りで、ロザリオをぐるっと一巡する。
それと共に、ロザリオは、五連で構成されているので、五連に合わせて黙想することができるように「黙想のテーマ」が用意されている。
これは、カトリックのロザリオで用意されている黙想のテーマ(喜びの神秘、悲しみの神秘、栄光の神秘)のスタイルにならったもの。
「黙想のテーマ」は曜日で変えるようになっている。月・木は「イエスの癒し」、火・金は「イエスの奇跡」、水・土は「イエスの顕現」について黙想。日曜は、これらのテーマをシーズンごとに入れ替えて黙想するようになっている。
シーズンは、キリスト教のカレンダーにもとづき、アドベント=待降節に始まり聖灰水曜日で終わるシーズン(12月頃~3月頃)、聖灰水曜日に始まり棕櫚の聖日で終わるシーズン(3月頃~4月頃)、イースターに始まりアドベントで終わるシーズン(4月頃~12月頃)となっている。各シーズンの始まりとなる祝日は、グレゴリオ暦(太陽暦)ではなく天文事象(春分の日の次の最初の満月の次の最初の日曜日、みたいな)によって決定されるので、日付が毎年変わる「移動祝日」となっているところが、わかりずらい。
なお、クリスチャンは日曜日を、聖日とか主日とか主の日、と呼ぶ。どうしてかと言うと、「イエス・キリストは日曜の朝に復活した」と信じているから。毎週、日曜の朝にあつまって礼拝をささげる理由にもなっている。
1.イエスの癒し (月・木・アドベントから聖灰水曜日までの聖日)
● 百人隊長のしもべの癒し (ルカ7:1-10、マタイ8:5-13)
● 長血を患う女性の癒し (ルカ8:43-48、マルコ5:25-34、マタイ9:20-22)
● 目の見えない人の癒し (マルコ8:22-26)
● ラザロの復活 (ヨハネ11:17-44)
● 重い皮膚病を患う十人の癒し (ルカ17:11-19)
2.イエスの奇跡 (火・金・聖灰水曜日から棕櫚の聖日までの聖日)
● 水をぶどう酒に変える (ヨハネ2:1-11)
● 嵐を鎮める (マタイ8:18、23-27、マルコ4:35-41、ルカ8:22-25)
● 五千人の給食 (マタイ14:15-21、ルカ9:12-17、ヨハネ6:4-13、マルコ6:35-44)
● 水の上を歩く (マルコ6:47-52、マタイ14:24-33、ヨハネ6:16-21)
● いちじくの木を枯らす (マルコ11:19-25、マタイ21:19-22)
3.イエスの顕現 (水・土・イースターからアドベントまでの聖日)
● マリアへの受胎告知 (ルカ1:26-56)
● 変貌山での顕現 (マタイ17:1-9、ルカ9:28-36、マルコ9:2-10)
● マグダラのマリアへの顕現 (ヨハネ20:11-18、マルコ16:9-11)
● 疑い深いトマスへの顕現 (ヨハネ20:26-31)
● 迫害者サウロ(パウロ)への顕現 (使徒9:1-19)
以上のように祈り、黙想する、エキュメニカルなロザリオ。祈りつつ、唱えつつ、黙想のテーマの聖書の場所を開き、読み、想像力をはたらかせて、その場面を思いうかべ、イエスと自分との関係について深く考えていくなら、ビーズをたぐる指が途中で止まってしまうことも起きる。イエスと自分の世界に深く入って行くと、あっと言う間に時間がたって、自分がどこまで祈ったか、わからなくなってしまう。
なので、ゆめゆめビーズから指を離さないように。そういうことが起こるからこそ、どこまで行ったか忘れないためのビーズなのだ。
Bon Voyage! 良い旅を!
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