PPMの滞在先ホテルに電話して面会した女子高生、それが私でした_2
来日中のピーター、ポール&マリーの滞在先ホテルに電話をし、面会をした女子高校生のアンディさん。その後も、彼らとの親交は永く続きました。彼らが来日するたびに幾多の時間を共にしたアンディさんだからこそ語ることが出来るメンバーの素顔、そして彼らの解散と再結成の真実など、興味深いお話が続きます。お楽しみください。
前編はこちらから。
君はいい大人になったねと、ピーターに言われました
大江田:あのころのフォーク・ソングのグループは、コーラスがひとかたまりになって録音されているケースが多い。誰がどのパートを歌っているのか、わかりにくい。ブラザース・フォアもそうですね。ところがPPMは、3人それぞれ用意されたマイクの前に立ち、ステレオ特性を生かした再生を可能とする録音をしました。それを思いついたのはマネージャーのアルバート・グロスマンだと、ピーターは言ってました。
当時、ステレオ録音レコードのキャンペーンがありました。キャピトル・レコードは、1958年にキングストン・トリオの「ステレオ・コンサート」でキャンペーンをしています。
「PPMのようにシンガーの立ち位置がはっきりわかって、そして音楽の全体が表現されているというのは、フォーク・ソングのグループにおいては、自分たちだけだった」ともピーターは言ってました。「僕らだからできたんだ」と。
アンディ:ご承知だと思いますけども、ピーターが言うこと、全部が本当ではないですから。宣誓してるわけではないし。
『A Soalin'』という曲があリますよね。イギリスのSouling Songですよね。Soul Cakeをもらい歩く歌です。あの当時に歌っていたのはPPMだけなんですよ。ずっと後年になってスティングがPPMとそっくりのヴァージョンを歌っています。一体あれはどっから持ってきたんだろうと思って、ピーターに「あれはどっから持ってきたの?」って、聞いたんですよ。そしたら、なんかごにょごにょ言った挙句に、「ポールが持ってきたんだ」って言うんですけど、でも顔にね、そうじゃないって書いてある。
大江田:ピーターって、バンドのスポークス・マンを自認しているところがありますよね。
アンディ:彼はね、前しか見てない人なんです。過去のことはあんまり覚えてない。記憶違いもかなりありました。
2012年に来日したときに、新宿曙橋のライブハウス「Back in Town」で、ピーターを囲む会をやったんですよね。ライブ演奏をしてもらってギャラ払っちゃうと、ヴィザとか税金とか面倒くさいので、そういうこと一切なしの「お友達とお喋り会」みたいな感じで、人を集めて。ピーターは「何でも答えるよ」って。「朝の雨 / Early Morning Rain」のPPMのヴァージョンには、サード・ギターが入っていますよね。誰かが「あのサード・ギターの演奏者は、誰ですか?」って、聞いたんですよ。ピーターね、真面目に「マイク・ブルームフィールド」って言った。でも後からいろんな人が調べると、そのフレーズの取り方とかから、ブルース・ラングホーンじゃないかということになりました。
大江田:あの頃にはフォーク系のセッション・ミュージシャンて、ほとんどいませんものね。ブルース・ラングホーンて、事故で右手の指3本の大部分を失っていて、それが彼の独特の演奏スタイルをもたらしたと言われています。音色もすごく綺麗ですね。
アンディ:彼の記憶の中では、そうなってるんですよ。
大江田:僕がインタビューしたのが、そのトーク・パーティの翌日でした。『ディスカヴァリー:ピーター、ポール・&・マリー・ライヴ・イン・ジャパン 1967』(WQCP-1331/32)のプロモーションのために来日していました。
アンディ: そうですね。
大江田: ピーターは、4〜5日ほど東京に滞在して各媒体のインタビューを受けました。そのときにボクも、雑誌「レコード・コレクターズ」用に時間をもらいました。いくつか質問を用意していって、話を聞いたんです。インタビューの最後に「僕は君のことを覚えてる。君はいい大人になったね」ってピーターに言われました。まさかピーターがボクを覚えているなんて信じられなかったんですけど、先日アンディさんにこのことをお話ししたら、そういうことを覚えてる人だと伺って、非常に感激したんです。その時が、3回目のインタビューでした。
大江田:最初のインタビューは、旧ヒルトン・ホテルの時代でした。マリーとポールはインタビュー現場に来ていて、ピーターだけいない。ピーターはホテル周辺の日比谷高校界隈の坂道をジョギングしていて、「彼はいつ来るかな」みたいなことをポールが言うと、マリーは「またやってるわ」みたいな受け応えでした。しばらくして、ピーターが帰って来た。彼はそういう時に、謝らないんですね。
アンディ:彼は、社会は自分のために回ってると思っているの(笑)。
大江田:その夜に、中野サンプラザでコンサートがあって、出かけました。ピーターが履いているスニーカーの右足と左足が違う。ニューヨークの家を出る時に焦っていたから、左右違うスニーカーを履いてしまったけれど、彼は自分では気がつかない。マリーがボクに、こう説明してくれました。その時はまだゴールド・キャッスル・レーベル在籍時で、次のアルバムがワーナーからリリースと決まった、そのタイミングでした。ゴールド・キャッスルからワーナーに戻る、それがどれほど自分たちにとって喜ばしく望ましいかということを、マリーが話してくれました。それをよく覚えてます。マリーはオープンな人で、いろんなことを話してくれました。
アンディ:彼女は、実は人見知りなんですよ。
大江田:そうなんですか。ボクは気が合ったのかな。
アンディ:そうでしょうね。初めての人に口を開くハードルが高い。そんな感じでしたね。
大江田:日本ワーナーの洋楽課長だった田中敏明さんが、僕のPPM好きを知っていて、チャンスを廻してくれました。その日もサンプラザの舞台袖までボクを引っ張ってってくれて、マリーと話しているうちに、彼女もなんとなく過去にボクと会ったことを思い出してくれました。
グループ解散の真実
アンディ:後からポールに聞いた話ですけど、1970年の来日中に、ポールが「もうツアーを止めないか」という提案を2人にしたんですって。彼の念頭にあったのがビートルズで、ツアーは止めるけれどアルバムは作るという提案のつもりだった。ポールには、奥さんと子供が3人が待つ家に帰る時間がまったく無いというのが、悩みの種。最も多かった時は、年間300回もコンサートをやった。マチネとソワレと両方がある日もあって、移動日もあって。もう本当にツアー、ツアーで毎日がツアーでいっぱいだったんですね。それに耐えきれなくなったポールが、「もうツアーやめないか」って言ったら、ピーターとマリーとがあの頃は仲が悪くて、「わかった解散しよう」って話になっちゃった。
大江田:どうして仲が悪かったんですか。
アンディ:ピーターは、きちんとやりたい人。マリーは、気分で自由にやって、それが「私の持ち味なのよ」みたいな人。そこに二人の大きな違いがありました。ポールが、2人の間でオロオロしてましたね。
大江田:それが1970年に解散した理由の真相なんですね。
アンディ:ポールとしては、解散までは考えてなかったんだけれど、でもこういう生活はもうごめんだとも思っていた。
大江田:ピーターの少女に対するセクハラが、解散の遠因になったという説がありましたが、この点はいかがですか?
アンディ:実際のインシデントがあったのは、65、6年だと思います。だけど引っ張り出されてきたのは68年。私の推理、多分そうじゃないかなと思うのが、大統領選挙がらみです。68年の大統領選挙の時にユージーン・マッカーシーが民主党の候補になった。ピーターは選挙運動中に「Eugene McCarthy For President ( If You Love Your Country )」というレコードを作ってますね。
アンディ:そのマッカーシーの姪っ子のメアリー・ベス・マッカーシー と、結婚します。
大江田:ピーターが作った「Mary Beth I Love You」という歌がありましたね。
アンディ:甘々のラヴソングの「Whispered Words」という歌もありました。
68年には、大統領選挙でユージーン・マッカーシーを応援をしていたし、歌まで作って集会をさんざんやっていました。それに、反発されたんだと思います、あの話が持ち出されたのは。
大江田:共和党側からですか?
アンディ:共和党なのか、それとも民主党なのかは知りません。でも、実際のインシデントがあってから何年かしてから問題が出てきて、しかも私の知る限りでは、そういうデリケートな問題だからということもあるんでしょうけれど、被害の訴えがないんです。相手の少女は、14歳ですね。女性姉妹2人でピーターにサインを求めに行って、お姉さんは帰ったんだけど、妹が残ってセクハラに遭ったという話になってるんですが、それはその子が自ら望んだんじゃないかという気がします。あの当時のグルーピーっていうか、アーティストの周りに集まる女の子たちなんて、チャンスがあればっていう子たちが結構多かった。そういうムードがありました。私が日本で見てる限りでは、ピーターは非常に紳士的です。そういうことする人ではありません。
それが68年に持ち出されてきたっていう点に、疑問を感じます。68年にマッカーシーの姪っ子のメアリー・ベス・マッカーシーと出会って、二人は69年に結婚します。結婚に向かっている際中にそういう問題は起こさないはずの人だし、恐らく過去のことを持ち出されたんだろうと思います。
結局のところ取り調べを受けて、自分で有罪を認めて、有罪判決を受けて収容されて、3ヶ月の服役して釈放されて。それから何年か経って、ジミー・カーターの大統領の離任日の前日に恩赦を出されて、有罪で服役したという記録が消されたんです。
大江田:解散とは関係がないと考えていいですね。
アンディ:おそらく関係ないと思います。
大江田:ポールの改宗説というのは、どうでしょうか?仏教徒だったポールが、クリスチャンになった。PPMのコンサートでは3人のソロ・パートがありますよね。その自分のソロ・パートで、クリスチャンに勧誘する発言するようになって、それが不和を生んだという説があります。
アンディ:ポールは、生まれたのがメリーランドで、育ったのがミシガンですね。メリーランドっていうのは、元々カトリック教徒の植民地なんですよね。だからもしかすると、ポール自身のバック・グラウンドはカトリック系だったのかもしれないと思います。ところがニューヨークのグリニッジヴィレッジに出てきたら、あの頃、禅が流行ってたんですよね。
大江田:そうですね、アレン・ギンズバーグらのビート・ジェネレーションには、東洋思想の影響がありました。
アンディ:ピーターもそれに染まって、『グレート・マンデラ / Great Mandella』を書いていますね。
多分ポールは、その頃の自分を指して仏教徒って言ったんだと思います。彼のファミリーが、元々から仏教徒だったわけではないです。何がきっかけなのかは知らないのですが、彼は67年ぐらいに、ボーン・アゲイン・クリスチャンになりました。もしかすると奥さんの影響もあるかもしれない。
大江田:奥さんは、その頃からすでにキリスト教を教える立場の人として、学校に勤務していたのですか?
アンディ:それはもうちょっと後の話ですね。ポールの奥さんは、おそらくポールの高校時代からのお付き合いで、彼女は神学校に進んで牧師の資格を持ってるんです。
大江田:ボーン・アゲイン・クリスチャンて、どういうクリスチャンなんですか?
アンディ:系統的に言うと福音派に属するのだろうと思います。プロテスタントの中でも保守的な傾向を持つ系統ですね。あるときにガーンと神の啓示を受けて、私は神様に愛されてるんだという自覚を持ち、そこから生き方、生活の仕方、いろいろなもの全部をクリスチャンであるべき形に持っていくんだ、みたいなね。
大江田:ポールの改宗が解散原因とは考えにくいとなると、70年にポールがツアーを止めようと提案した言葉が引き金になって、解散に至ってしまったということなんですね。
アンディ:それが、ポールの言い分です。ちょうどあの頃ね、グループの解散が多かったんですよね。
大江田:子供の歌を歌うアルバム「ピーター・ポール&マミー」が、最後の作品になりました。
アンディ:ワーナーとの契約は、10年間でアルバム10枚。そのために「レイト・アゲイン / Late Aain」を作って、その後、新しい素材を準備する時間が非常に少ない中で、アルバムを作った。それが「ピーター・ポール&マミー / Peter, Paul and Mommy」になったみたいなんですよね。その後「Ten Years Together」というベスト盤が発表されていますけどね。オリジナル曲を収録するアルバムとしては、「ピーター・ポール&マミー」が最後です。
大江田:「ピーター・ポール&マミー」が発表された当時のことですが、とある日本の音楽評論家の方が、「3人に共通する歌うべきテーマを見出せない中で、子供向けの曲を集めたアルバムになった。つまり、これは解散をせざるを得ないバンドが、最後のアルバムと思って作ったに違いない」と、言っておられました。
アンディ:多分それは、当たってます。全く新しい曲がないわけではないですけれども、ほとんどがみんなが知ってる曲の焼き直しですよね。
大江田:でもあのアルバムに収録された「パフ」は素晴らしいです。ポール・プレストピーノがイントロのマンドリンを弾いていて、途中から子供たちの声が入ってくるヴァージョンです。こうやって「パフ」が子供達に歌われるんだなあ、いいなあと思いました。
マリーのお買い物とポールの「ウエディング・ソング」
アンディ:70年に彼らが解散して、私としては終わったんだなっていう感じでした。
PPMは82年にリユニオン・ツアーで、日本に来てるんですよ。その時は、ちょっとした事情があって、コンサートは逃したんです。その次に来たのが90年。たまたまクレジットカードの明細書と一緒に入ってたパンフレットに、PPMのコンサート情報が載ってたんです。来日に気づいたんですけど、もう彼らとは連絡が取れない。70年に解散した後、グリーティング・カードを何回か送ったりとか、そういうつながりはあったんですけども、それも途絶えてしまっていた。事前に連絡する方法がなかったもので、当日の会場の中野サンプラザの楽屋に、お花屋さんからお花を送りました。「もし私を覚えていたら、当日券売り場にメッセージをください」って書いたカードに、アンディとサインをして。コンサートの日に、当日券売り場に行って「アンディと申しますけれども、何かメッセージありますか」って聞いたら、「メッセージはありません」って言われたんですけど、バックステージ・パスが出てきた(笑)。
コンサートが終わった後、バックステージに行きました。食事をしたり、飲み物があったりするケータリングが入っている部屋をグリーンルームって言うんですけど、そこで待っていたら、ピーターが入ってきたんで「お久しぶりです」って言いました。そしたら「アンディ!」って。メッセージカードがあったから、アンディだとわかったんでしょうけど、姿形はまるで違うんですよ。10代の当時はね、まだ視力はよかったんで眼鏡なんかかけてなかったし、ストレートのロングヘアだった。それがもう既にショートヘアだし眼鏡かけてるし。
それ以降は、彼らが日本にいる間のアシスタントみたいな感じで、お付き合いが復活しました。
大江田: ほんの数回の取材はしましたけど、ボクは彼らの音楽とささやかなコメントを知るのみの人間で、そこから想像してこういう人たちに違いないという想いつつ、自分の中で彼らの人間像を作って来たわけです。そして音楽に肉付けをする。今お話を聞いてる限りでは、自分はあまり間違ってなかったかなって思いました。
アンディ:3人とも、基本的にすごくいい人ですよ。すごくいい人なんだけれども、ポールはお人好し。悪く言えば騙されやすい人ですね。人をそのまま受け入れちゃう。
ピーターは、割としたたかです。したたかな上に、ビジネスマンです。お金にもシビアな人ですね。
マリーにとっては、日本はお買い物に来るところだった。ありとあらゆるものを買うんですよね。そうそう、60年代の昔のヒルトン・ホテルをご存知ですよね。マリーは、ヒルトンの日本間の畳の部屋にお布団を敷いて、泊まっていました。マリーは日本式の布団が気に入って、帰るときに一式を買って帰った(笑)。
90年代のいつだったかな、その時は錦鯉を買って帰ったの(笑)。
大江田:酸素ボンベつけて帰ったんですかね。
アンディ:多分ね。大きなビニール袋に入れて帰ったみたいですよ。
大江田:アメリカ帰国時に、空港検疫があるから大変ですよね。
アンディ:彼女、あの頃コネチカット州に住んでたから、冬になったら家の中に入れていたんだと思うんですよね。外だと凍っちゃうからね。
大江田:ピーターはニューヨーク。マリーはコネチカット。ポールはメインに暮らしているんですね。
アンディ:マリーの最初の旦那さんはね、ジョン・フィラー。未婚の母になりかけたの。1960年の結婚だから、24歳。デキ婚してるんです。最初の娘さんのエリカのお父さんですね。
2人目がカメラマンのバリー・ファインスタイン。
大江田:ディランの1966年の英国ツアーの写真を撮った人ですよね。
アンディ:そうそう、あの頃のアーティストの写真を、いっぱい撮ってますね。彼と結婚していた時代にできた子供が、アリシア。
その次がジェラルド・テイラー。4番目の旦那さんがイーサン・ロビンス。彼はマリーよりも年下なんじゃないかな。レストランのオーナーって言ってましたけど。彼がね、マリーをお姫様のように扱ってくれる人でね。
大江田:60年代フォークの女性たちって、髪がストレートヘアで長いですよね。
アンディ: そうですね。
大江田:ジョーン・バエズもバフィ・セントメリーもキャロリン・ヘスターも、ジョニ・ミッチェルも当時は長いです。一種のトレードマークというか、女性フォーク・シンガーの典型像というか。
アンディ:あのね、正直に言います。あれが一番手が掛からないんです。60年代の映画スターの女性の写真見ると、髪の毛こんなに膨らんでいるでしょ。あれはね、逆毛立てたりして、セットが大変なんですよ。パーマもかけなきゃいけないし、手がかかるんですよ。シャンプーしたら、その後はもちろんカーラー巻いて寝るんだし。
大江田:マリーのように長めのストレート・ヘアというのが、必ずしも女性フォーク・シンガーのシンボルというわけではないんですね。
アンディ:他のことに興味がいってる人っていうのは、ああいう髪型になるんですよ。
大江田:なるほど。僕は今までずっと、60年代の女性フォーク・シンガーの自己証明が、あの髪型かなと思ってたんですけど、そんなことはないんですね。
アンディ: 女性のフォーク・シンガー仲間がそういう髪型だから、一つのシンボルとしてあったのかもしれないとは思いますけど。あの頃に髭を生やしてた男性が多かったのも、そうかもしれないし。
大江田:ロバート・ケネディが、ロスで撃たれた日に、たまたまピーターは日本にいた。アンディさんは、その日はピーターとご一緒だったんですよね。
アンディ:はい。確か即死ではなくて、病院に運ばれてからの死亡確認だったと思います。最初に入ってきたのは、まず撃たれたっていう一報でした。
日本に来る前に、ピーターはロバート・ケネディの選挙運動の場で、後に奥さんになるメアリー・ベス・マッカーシーと会ってるんです。「これから僕たちPPMは日本に行くんだけど、帰ってきたら電話して」って言って、電話番号を書いたメモをメアリー・ベスに渡したそうです。日本から帰ってメアリー・ベスがピーターに電話して、初めてデートして翌年に結婚。ピーターの結婚に、ポールがお祝いに書いたのが「ウェディング・ソング Wedding Song」ですね。
大江田:「ウェディング・ソング」は、いまだにアメリカでは結婚式の定番曲として大切にされているって聞きます。
アンディ:そうですね。日本でも自分の結婚式で流しました、自分で歌いましたっていう方もいるんです。
あの歌は、歌詞を理解することが大切です。「For whenever two or more of you are gathered in His name, There is Love, there is Love / なぜなら、あなた方が神の名のもとに集まるとき、いつでもそこには愛があるのです」。これは聖書の言葉を下敷きにしてる歌詞なんです。ペンテコステの頃にイエス・キリストが現れて、「お前たちが集まって、私のことや愛の話をしたら、そこに私はいるよ」って言ったというエピソードを踏まえています。
「二人が共にいたら、そこには愛がある」ということから、ポールは「ウェディング・ソング」としました。ピーターの結婚式の当日朝、出来上がった歌を、ポールは奥さんのベティさんに聞いてもらったら、彼女から「あなた、ちょっと、それは傲慢すぎない?聞く人によっては、傲慢に聞こえるんじゃない?」って言われた。ポールは、歌詞を一人称で書いていたんですね。神の場所に自分を置いて、「そこに私がいる」と語るという書き方をしてたんです。それでポールが慌てて、その場で三人称の「He」変えた。このことはポール自ら、文章に書いています。今でもたまにオリジナルのバージョンを、歌いますけどね。
大江田:その後、PPMは再結成します。その際の経緯はお聞きになりましたか?
アンディ:私が知ってるのは78年にカリフォルニアに原発を作るっていう話が出た。その反対運動として、ジョン・ホールが主催した反原発キャンペーンの時に、ピーターがポールとマリーに一緒に歌わないかと持ちかけた。そのときはワン・ポイントみたいな感じでした。でもその後、「やっぱり3人で歌うと違うよね」ということで再結成に至った。ジョン・ホールは、のちに下院議員になりました。PPMのレパートリーの中に「パワー」っていう反原発の歌がありますけれど、あれはジョン・ホールが書いた歌です。
長い時間をかけて音楽を愛し続けるということ
大江田:長い時間かけて、こうやって理解を深めながら音楽を愛し続けるということがあるんだなと思いながら、アンディさんのお話を伺いました。洋楽が日本で愛される場合って、かつては一方的な片思いのことが多かったんです。だからダメということでは、全くないんですけれど。
アンディ:最初にキングストン・トリオやブラザース・フォアとか、いわゆるモダン・フォークが日本に入ってきたとき、フォークっていったら英語の歌だったんですよね。その後、日本語のフォークが出てきた。あの時に、私は日本語のフォークに馴染めなかったんですよ。
今考えるとね、日本語のフォークの歌詞の言葉が荒っぽかったからなんだろうと思う。さっきお話ししたように、「風に吹かれて / Blowin' The Wind」を聞いたときに、私は詩が綺麗だと思った。英語の詩ってね、リズムはあるし、それから韻を踏んで所々クスッと笑わせるユーモアがあって、そういうのを全部ね、味わい尽くしたいと思った。英語の歌詞ということに、すごく惹かれてたんですね。
日本語のフォークの歌詞って、そういうものを踏み荒らしてる感じがした。あの頃ね、歌うのは男の方が多かったでしょう。大抵がね、一人称が「俺」なんですよね。綺麗じゃないなあと思ったんです。しかも私は、外国暮らしをしたおかげで高校に4年、大学は紛争のおかげで5年。4月生まれということもあって、大学を出て就職したら、会社に入って2、3日目ぐらいに25歳だった。日本のフォークはラジオの深夜放送と、それからインディーズ・レーベルの世界のことで、私とは接触がなかった。就職しちゃうと、ラジオを聞いてる暇なんかないですよね。テレビからもうフォークは聞こえてこなくなっていたし。だから日本のフォークの世界っていうのは、ほぼ知らないです。日本語の歌を聴き始めたに時には、日本語の子守唄とか、わらべうたに行っちゃったんですよ。
大江田:ボクがアンディさんと初めてお会いした時、アンディさんは自分の青春期の匂いをフォークから嗅ぎ取りながら、楽しんでいらっしゃるようにお見受けしました。
アンディ:うん。私としてはね、ジャンルはそれほど問わないんですよ。ただね、例えば、ベートーベンの交響曲なんていうのは、長すぎて付き合いきれない。第1楽章だけでも長くて。オペラのアリアとかに、名曲がありますよね。あの辺がちょうどいいかなっていうぐらい。
やっぱり私はね、言葉が好きなのかなって思います。私が解るのは日本語と英語、あとほんの少しスペイン語。日本語の歌詞で美しい歌詞っていうのが、本当に少ない。言いたいことを言っているっていう意味では、意味はよく伝わってくるんです、私は日本人だし。でもね、俳句の世界みたいな、小さな幸せ見つけちゃうような、小さくまとまっちゃってる歌詞が多いなって思って。そういう意味ではね、ゴードン・ライトフットとかね、ああいう人たちの書いてる世界とだいぶ違うなって思うんです。
大江田:先ほど「英語の詩を堪能したい、英語の詩を味わい尽くしたい」と仰いました。どうですか、堪能されましたか?
アンディ:とんでもないです。私は、研究者じゃないですから。一時期ね、そのためにはこれも聞かなきゃみたいな気持ちになったこともありますけど、でも私はあくまで素人だから。
大江田:何か好きな英語の歌を、教えてもらえますか?
アンディ:そうですね、繰り返し出てくるのが、イアンとシルビアがアカペラで歌ってたバラードで、『グリーン・ウッドサイド / Greenwood Side』。チャイルド・バラッドの"Cruel Mother"に分類されているんですけど、私はあれは"Cruel Mother"ではなくて、"Cruel Lover"なんだと思うのね。
貴族のお嬢様が、お父さんの家来に恋をして駆け落ちをする。でも振られる。ところが子供が生まれちゃう。生きていけないから、子供を殺してお父さんの館に帰る。帰ったら、そこに子供がいた。当然のことながら、自分が殺した子供とは違う。「かわいい子供たちだね、あなたたちが私の子供だったら真っ赤なお洋服着せてあげるのにね」って言うと、その子供たちが「僕たちがあなたの子供だったときに、僕たちは血まみれで真っ赤だったよ」と言う。そういう歌です。
母親が子供を殺したから"Cruel Mother"なんですけども、そもそも女に子供を産み捨てにさせた男がいけないと、私は思うんですけど(笑)。
大江田:途中までは日本の浄瑠璃の道行きのお話と似てるけど、途中からコロっと変わりました。その歌はふと口をついて出てくるんですか?
アンディ:うん、ちょこちょこ出てくる。私は、ほとんど音源を聞かないんですよね。いつの間にかね、歌詞を全部覚えてる。あとスペイン語が混じってるキングストントリオの「エル・マタドール / El Matador」っていう闘牛の歌。あれも出てきます。
アンディ:それからPPMの中で、ピカイチっていうわけじゃないんですけど、なぜかどうしても好きだというのが、ピーターが書いた「イフ・アイ・ハッド・ウィングス / If I Had Wings」。
大江田:ピーターが、5フレットぐらいでGフォームでギターを弾いてましたっけ。
アンディ:いつだったかな、92年ぐらいだったかピーターから突然ね、「僕が書いた歌の中で、何が一番好きなの?」って聞かれて、「イフ・アイ・ハッド・ウィングス / If I Had Wings」と答えました。そのときに、そうだ、「私は学生時代にこの歌に救われたんだな」って思ったんです。
大江田:「救われた」というのは?
アンディ:「If I Had Wings」は、「私に翼があったら飛んでいくよ」っていう歌なんです。誰とは言わないんですけれど、「他人に私を止めることはできない」って言ってる歌なんですね。私もそれまで親の言うことに、がんじがらめにされていた。高校時代、大学時代、私はスキーというものに一度も行っていないです。なぜかというと、親が学校行事以外の外泊を認めなかったから。日帰りのスキーもないです。
大江田:そういう暮らしをしてきたアンディさんに、「もしも私に羽があったら」という歌が響いたんですね。
アンディ:そうですね。「羽があったら飛んでいく。あなたには見えないかもしれないけど、私には羽根があるんだよ」って。ストンと私の胸に落ちたんですね。
大江田:ストンと落ちてのち、ご両親の言いつけを守らず行動したということはあったんですか?
アンディ:いろいろありました。
大江田:おお、そうなんですね(笑)。
アンディ: 両親にね、私を勘当にするほどのね、ガッツはなかったんでしょうね(笑)。
大江田記
アンディさんには長時間のインタビュー時間をいただき、思う存分お話をさせてもらいました。メンバーの人となり、グループ結成に至るプロセス、アメリカと彼らの活動の関わり、PPMを支えた周囲のスタッフ、さらに60年代末に解散に至るプロセスのほか、アンディさんご自身がメンバーと持ってきた関わりも、伺うことができました。それぞれがとても興味深かったことに加え、アンディさんご自身が長い時間の中でPPMの音楽を愛してきたことが、とてもよくわかるお話でした。
人にはそれぞれの音楽の愛し方があります。音楽を愛することが、どれほどにかけがえなく愛おしいことなのか、改めて深く感じることになりました。アンディさん、ありがとうございました。