手を取る
働けど 働けどなお 我暮らし 楽にならざり じっと手を見る
石川啄木の「一握の砂」に収録されている有名な歌です。
本来は労働者の悲哀をうたったものですが、僕はここで「手」に注目して、勝手ながら僕なりの解釈を入れたいと思います。
まず「誰の手」をじっと見ているのか、と気になりました。
「自分自身の手」を見て、生活の苦悩を嘆いているのかもしれない。
子供が働いている「両親の手」を見て、どうして他の子と違うのか、とふてくされているのかもしれない。
親が「子供の手」を見て、こんな暮らしをさせてしまって、と悔やんでいるのかもしれない。もっとがんばろうと気合を入れているかもしれない。
次に「どんな手」を見ているのか、ということ。
「仕事中の手」を見て、汚れているな、傷があるな、メモが書いてあるな、と見ているのか。
「疲れている手」を見て、カサカサだな、肉刺があるな、と見ているのか。
「風呂上がりのような手」を見て、子供のようだな、こんなきれいな手なのに、と見ているのか。
ふと思い出して、考えてみました。
さて、本題に移りましょう。
一人ひとり、手の感触は違う
手は人生を表している。手にも表情があり、触れた人を笑顔にも、悲しい顔にもさせる。
さっと差し出された手を握る時でも、相手の優しさや礼儀、これまでの生活が分かるような気がします。
手を握ると、本人の力も分かるし、お互いの緊張感(汗や脈、心拍)も分かる気がする。
大きな手を握ると、頼りがいがあるように思える。
温かい手は、人を引き寄せる。冷たい手には、几帳面さが伝わる。
ごつごつした手は、人に対する責任感や苦労を共感できる。
震えている手は、複雑だなと感じる時もある。恐怖かもしれないけど、心の振動だから、すぐに感じるのは難しい。
また、手は身体を傷つけると同時に、心も傷つける。手は心を感じることができるし、心にも近いから、直接傷つけてしまう。
手は、魔法が使える
ものを作ることができる
眠らせることができる
怒らせることができる
泣かせることができる
勇気をあたえることができる
安心させることができる
痛みをとることができる
そして
抱きしめることができる
触れることで本人に力を与え、次に向かうために背中を押すことができる。
触れた相手にしか伝わらない、「はっと」心を動かされるものがある。
手を取り、手をつないで、人と人がつながっていくことで、一人ではできないこともできるようになっていく。
たくさんの「手」=人生に関われてよかった。
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