墓碑は語る(下)コロナこぼれ話

きょうは私たちの暮らしを揺さぶっている感染症の話をしたい。

先日、谷中墓地を歩いていたとき、思いがけず感染症の歴史にふれる機会があった。

明治の軍医

うっそうと茂った木の真下に、黒ずんだ墓があった。長年の風化と、木陰ならではの暗さで墓石の文字がよみづらい。

まとわりつく蚊を追い払いながら、字に目をやった。

「故 海軍中軍医 従七位 今居元吉 墓」

とあった。

「医」という文字には、ここで表すことができない旧漢字がつかわれていた。「従七位」というのはかれの官位だろう。戦前の、大日本帝国海軍に属していた医師の墓であることがわかる。

感染症1

これが実際の今居さんの墓だ。側面にある漢文をみてほしい。端折りながら訳してみる。

「明治10年(1877年)2月、君は任務のために雷電艦に乗ったが、この年の9月、艦内にコレラ病が大流行して、君までもがこれに感染し、10月1日、富岡病院で44歳で亡くなった。 明治10年12月15日 海軍中医監 宮下慎堂」

宮下慎堂とは今居さんの海軍の同僚で、のちに海軍軍医三羽ガラスとよばれた人物だ。

宮下さんが故人をしのんで彫ったこの漢文は、目下の世界の写し絵のような気がして、妙な気分になった。

全身を防護服でかためて治療にあたっても、世界では9万人以上もの医療従事者が新型コロナウィルスに罹患しているのが、いまの私たちの状況だ。イタリア1国だけでも、すでに150人の医師が死亡したという。

150年前もおなじだった。船は構造上、”3密”が避けられない。ひとたび強い感染症がはやれば、適切な処置は難しかっただろう。ダイヤモンド・プリンセス号の事態をみれば、なんとなく想像がつく。

今居さんが不幸だったのは、帝国海軍が創設されてわずか5年しかたっていないということだった。経験不足のまま、苦しむ患者の治療に奔走し、やがてわが身もウィルスに侵され、こときれた。

いや、あるいはこうだったかもしれない。

幕末に生まれた今居さんは、明治維新まで敦賀藩(現在の福井県敦賀市周辺を治めた藩)の藩医だった。

敦賀といえば、北前船(きたまえぶね)という、江戸時代の国内輸送を支えた船の大寄港地だった。

船ではやる感染症に対する知識はあったものの、コレラが今居さんの想像をこえて広がったのかもしれない。

いずれにしても、無念だったろう。

感染症に苦しんだ明治日本

日本コレラ史という書物によると、この年だけで日本国内のコレラの死者は8000人にのぼった。

横浜では劇場や寄席の営業が禁止されたり、猛威をふるうコレラから逃れようと、風変わりな迷信がはやったと日本コレラ史は書いている。

墓に同僚がメッセージを彫るというのはあまり一般的ではない。それだけ今居さんの死が、関係者に強い衝撃を与えたのかもしれない。

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