『ナザレ人福音書』 断片

より。英語訳からの重訳。

正典に収められず失われた福音書型文書がいくつか存在する。その一つに、紀元2世紀から4世紀までの頃、主にシリア・パレスチナやエジプトの、ユダヤ人を多く含むキリスト教セクトにおいて重視されていた福音書(Jewish-Christian Gospel(s))があり、教会教父らの著作に断片的な引用が残っている。教父たちは明確な分類をしていないが、現代はこのユダヤ人の福音書を以下の三種類に分類できると仮定して研究されている。


『ナザレ人福音書』
パレスチナ・シリアで4世紀に確認されるナザレ派で用いられた福音書。ヒエロニムスによって23節の引用が残り、他に中世の断片が13節残る。
2世紀までにアラム語で書かれたと考えられている。


『エビオン派福音書』
パレスチナで2-3世紀に確認されるエビオン派で用いられた福音書。サラミスのエピファニオスによる7節の引用が残る。
原文はギリシア語と考えられている。


『ヘブライ人福音書』
2-4世紀頃に確認される、エジプトにいるギリシア語を話すユダヤ人たちに重視された福音書。エルサレムのキュリロス、アレクサンドリアのクレメンス、オリゲネス、ヒエロニムスら合わせて7節の引用が残る。
原文はギリシア語と考えられている。


ここではナザレ人福音書として分類されている断片を訳す。
ナザレ派は主にシリアで活動した派閥であり、ユダヤ戦争時にエルサレムからペラに逃れたユダヤ人キリスト教徒コミュニティと結びつける説や、エビオン派と結びつける説がある。
彼らの用いたナザレ人福音書は正典マタイの福音書と極めて類似した内容であったと思われる。

使徒教父パピアスなどによる伝承はマタイによる福音書が原語がアラム語であり後からギリシア語に翻訳されたものであるとしているため、ヒエロニムスなどはこのナザレ人福音書こそは正典マタイの福音書のアラム語版であると考えていたようである。

:::::以下訳文:::::

[『ナザレ人福音書』に関する引用]


http://www.newadvent.org/fathers/2708.htm

マタイは、レビとも呼ばれ、使徒でありかつて徴税人であった。彼はキリストの福音[書]を執筆した。彼は最初にユダヤにおいて、ヘブル語で、割礼を受けた者たちで信じた者たちのために[執筆し]、これが後にギリシア語へと訳された。ただし[ギリシア語訳は]どの著者によったものかは不明である。そのヘブライ人[福音書]それ自体は今日に至るまで、パンフィロスが非常に入念に収集活動を行ったカイサリアの図書館において保存されてきた。私も、それを用いているシリアの都市ベレアのナザレ派の者たちによって私に書き送られた版を持つ機会があった。以下のことは書き記されるべきであろう。このうちでその福音記者は、旧約聖書の証言を引用する箇所ではどこでも、自分自身の報告の際も、我らの救世主が主格となる際も、七十人訳の訳者たちの権威に従うことなく、ヘブライ語に[従っている]。そこにこれら二つが存在する。「エジプトから私は私の子を呼び出した。」「彼はナザレ人と呼ばれるだろう。
(ヒエロニムス De viris inlustribus 3)


http://www.newadvent.org/fathers/30113.htm

ヘブライ人による福音書はカルデアとシリアの言語で、ヘブライ語の諸々の文字で書かれたものであり、ナザレ派によって今日まで使われているものである(つまり「使徒たちによる福音書」あるいは、概ね維持されているように、「マタイによる福音書」のことを意味している。その写しはカイサリアの図書館にある)が、そこに我々はこう[書かれていることを]見出す。「見よ、我らの主の母と彼の兄弟たちが彼に言った。『洗礼者ヨハネは諸々の罪の赦免のために洗礼を授けている。我々も行って彼によって洗礼を授かろう。』しかし彼は彼らに言った。『私が行って彼によって洗礼を授かるような、どんな罪を私が犯しただろうか。ただし、ひょっとして私の言ったまさにその諸々の言葉が無知にすぎないのでなければ、であるが。』」 そして同じ巻において[こうも書かれている]。「もしあなたの兄弟があなたに対して言葉において罪を為し、しかしあなたに償うならば、彼を一日に七度受け入れなさい。」彼の弟子シモンが彼に言った。「一日に七度でしょうか。」主は答えてシモンに言った。「あなたに私は七度の七十倍までと言う。というのも預言者たちでさえ、聖霊で油注がれた後に[も]、罪に満ちた諸々の言葉について有罪であったのである。」
(ヒエロニムス Adversus Pelagianos 3.2)


https://en.m.wikipedia.org/wiki/Minuscule_566

ユダヤ人[福音書]は「聖なる都市の内へ」が無く、「エルサレムへ」となっている。
( "Zion Gospel" 欄外異読 マタイ 4:5)


いくつかの証言とユダヤ人[福音書]において「原因もなく」という句を欠いている。
( "Zion Gospel" 欄外異読 マタイ 5:22)


いわゆるヘブライ人による福音書では、「存在に不可欠な」の代わりに「マハル」、つまり「明日の」を意味する[単語]を私は見出した。それで意味はこうである。「私たちの明日の糧」、つまり、未来のものである。「[それを]この日に私たちに与えてください。
(ヒエロニムス マタイ福音書注解 1 マタイ 6:11)


ユダヤ人[福音書]のここでの読みは以下のようになっている。「もしあなたがたが私の胸のうちにあってなお私の天の父の意志を為さないならば、私はあなたを私の胸から投げ出そう。
( "Zion Gospel" 欄外異読 マタイ 7:5 ただし 7:21-23により整合する)


[ユダヤ人]福音書では「諸々の蛇よりも[賢い]
( "Zion Gospel" 欄外異読 マタイ 10:16)


ユダヤ人[福音書]では「[天の国]は強奪されている
( "Zion Gospel" 欄外異読 マタイ 11:12)


ユダヤ人[福音書]では「私はあなたに感謝します。
( "Zion Gospel" 欄外異読 マタイ 11:25)


ナザレ派とエビオン派が用いる福音書を最近我々がヘブライ語からギリシア語へと翻訳したが、それは大半の人々によって真正なマタイの[福音書]と呼ばれている。それにおいて萎えた手を持つ男は石工として描かれており、以下の諸々の言葉で助けを懇願している。「私は石工でして、両手で生計を立ててきました。私はあなた、イエスに、私を健康へと回復させてくださるよう嘆願します。不面目にも私の糧のためにせがまなくてはならないことのないようにするためです。
(ヒエロニムス マタイ福音書注解 2 マタイ12:13)


ユダヤ人福音書は以下を欠く「三[の日と晩]」
("Zion Gospel" 欄外異読 マタイ 12:40)


ユダヤ人[福音書]は「コルバンはあなたがたが我々から得るべきものである
( "Zion Gospel" 欄外異読 マタイ 15:5)


アスタリスクで印付けたところ[マタイ 16:2-3]は他の諸々の写本において見いだされず、またユダヤ人[福音書]にも見出されない。
( "Zion Gospel" 欄外異読 マタイ 16:2-3)


ユダヤ人[福音書]は「ヨハネの子
("Zion Gospel" 欄外異読 マタイ 16:17)


ユダヤ人福音書は「七度の七十倍」の後にこうある。「というのも預言者たちにおいても、彼らが聖霊を以って油注がれた後に[も]、罪ある発話が見出されるのである。
( "Zion Gospel" 欄外異読 マタイ 18:22)


二人の裕福な男のうちの他方が彼に言った。「先生、私が生きることができるように、どんな善事を為さねばならないでしょうか。」 [イエス]は彼に言った。「人よ、律法と諸々の預言者[の書]を果たしなさい。」 彼は[イエス]に答えた。「それは、私が為してきたことです。」[イエス]は彼に言った。「行きなさい。そして全てのあなたの財産を売って、それを貧しい者たちの間に分配しなさい。しかしそこでその裕福な男は自分の頭をかきむしった。その[言葉]は彼にとって喜ばしいものでなかった。それで主は彼に言った。「どうして『私は律法と諸々の預言者の書を果たしている』と言えるのか。というのも以下のように律法に書かれて確立している。『あなたの隣人をあなたのように愛せ。』さあ見なさい。多くの兄弟たちが、すなわちアブラハムの子らが、泥を被っており、飢え死にしている。そしてあなたの家は多くの善いもので満ちており、そこから全く彼らに届くことはない。」そして彼は振り返ってそばに座っていた彼の弟子シモンに言った。「ヨナの子シモンよ、ラクダが針の目を通ることの方が、裕福な人が天の王国に入ることよりも容易である。」
(オリゲネス マタイ福音書注解 15.14 マタイ 19:16-30)


ナザレ派の用いる福音書には、「バラキヤの子」の代わりに「ヨヤダの子」と書かれていることを我々は見出した。
(ヒエロニムス マタイ福音書注解 4 マタイ 23:35)


しかし我々の手に届いたヘブライ文字での福音書は、隠した人に対して脅迫を加えず、放蕩に生きた人に対して[加えられている]のである。というのも彼は三人のしもべたちを持っていた。一人は主人の持ち物を売春婦たちと遊女たちで浪費した者であり、一人は利益を倍加させた者であり、一人はそのタレントを隠した者である。そしてそれに従って一人は受け入れられ、もう一人は単に咎められ、そしてもう一人は投獄された。それで、私はマタイにおいて、何もしなかった人に対する言葉の後で発言されている脅迫は、彼に言及しているものではなく、隔語句反復によって、祝宴をし酔いどれと飲んだ第一の者に[言及している]ものであるかもしれないと思っている。(エウセビオス Theophania 22 マタイ 25:14-15)


ユダヤ人[福音書]では「そして彼は否定し、誓い、自身を罵った。
("Zion Gospel"欄外異読 マタイ 26:74)


バラバは、いわゆるヘブライ人による福音書では「彼らの先生の子[バル・ラバ]」と翻訳されている。
(ヒエロニムス マタイ福音書注解 4 マタイ 27:16)


しかしヘブライ文字で書かれた福音書のうちには、「神殿の幕が裂かれた」ではなく、神殿の、驚くべき大きさのまぐさ石が崩壊した、という読みがある。
(ヒエロニムス Epistula ad Hedybiam 120.8)


ユダヤ人[福音書]は「そして[ピラト]は彼らに武装した男たちを渡し、彼らがその洞窟に対してめぐって座り、それを昼夜守護できるようにした。
("Zion Gospel" 欄外異読 マタイ 27:65)


[キリスト]自身が、諸々の家のうちで起こる諸々の魂の分離についての理路を教えている。ヘブライ語でユダヤ人たちの間に広く拡散されているかの福音書のどこかで我々はこのように言われているのを見出した。「私は自身のため最もふさわしい者を選ぶ。最もふさわしい者とは、私の天の父が私に与えた者たちである。
(エウセビオス Theophania 4.12 マタイ 10:34-36)

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