[メモ]イエスの婚約者(2)サマリアの女とサマリアの神々

これ↑のつづき。

イエスにもし婚約者がいると仮定したならば、そのような候補となる人物は正典中に登場するだろうか。ここで即座に「イエスの婚約者と言えばマグダラのマリア…!」のような推測をするには、まだ聖書中の根拠が弱い。マグダラのマリアについて正典中からわかることは以下。ただし他にマルタとラザロの姉妹であるマリアというのも登場し、カトリックなどでは同一視されるが、プロテスタントではこちらを「ベタニヤのマリア」などと呼んで区別している。ただし「ベタニヤの」という区別の呼称は聖書中には存在しない。おそらくこの二人は同一人物であると僕は考えているが、それについてはまた別の項で議論するため、「ベタニヤのマリア」に帰される記述はここでは触れない。マグダラのマリアについてわかることは

・イエスの福音伝道に付き従った女性の一人→ルカ伝8:2

"七つの悪霊を追い出してもらったマグダラと呼ばれるマリヤ、" ルカ8:2

・受難と復活の際に側にいた女性の一人として登場(十字架、埋葬、塗油)→マタイ伝、マルコ伝

・空の墓を目撃した女性の一人→マタイ伝・マルコ伝・ルカ伝・ヨハネ伝

・最初に復活のイエスに会った女性→マルコ伝・ヨハネ伝

くらいだ。十二使徒に先立って復活の最初の証言者として選ばれたことは驚くべき特筆性ではあるものの、だからといって即座にイエスの婚約者という話にはならなそうだ。七つの悪霊を追いだしてもらった、と紹介文にあるが、その具体的なエピソードについては明示的には語られていない。

ただし、埋葬に立ち会っていることは、多かれ少なかれイエスの親族と見なされる立場であった可能性は十分にある。アリマタヤのヨセフはカトリックの伝承によればイエスの母マリアのおじとされている。しかしこれではまだマグダラのマリアがイエス自身の婚約者であったとまでは特定されない。


ではとりあえずマグダラのマリアのことは置いておいて、福音書中でイエスが結婚を匂わせた箇所はあっただろうか、と考えると、一部の人ならすぐ思い浮かぶかもしれない記事は「サマリアの女」の記事である。

”そこで、イエスはサマリヤのスカルという町においでになった。この町は、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにあったが、そこにヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れを覚えて、そのまま、この井戸のそばにすわっておられた。時は第六刻ごろであった。ひとりのサマリヤの女が水をくみにきたので、イエスはこの女に、「水を飲ませて下さい」と言われた。”ヨハネによる福音4:4-5

この箇所に見られる井戸と結婚のモチーフに関しては上記の@kanedaitsuki氏によるまとめがよくまとまっているので僕の記事よりこちらを読むと良い。

アブラハムの従者は井戸でイサクの嫁リベカを発見しており、サマリアの井戸の起源として言及されるヤコブも、井戸で将来の妻ラケルと出会っており、立法者モーセも井戸で将来の妻ツィポラと会っている。しかもいずれの場合も、男性側が「異邦の男」として井戸の女性を訪れるパターンであり、イエスとサマリアの女の出会いも、その類型に当てはまっている。

”女たちが水くみに来る夕方、彼は、らくだを町外れの井戸の傍らに休ませて、祈った。「主人アブラハムの神、主よ。どうか、今日、わたしを顧みて、主人アブラハムに慈しみを示してください。わたしは今、御覧のように、泉の傍らに立っています。この町に住む人の娘たちが水をくみに来たとき、その一人に、『どうか、水がめを傾けて、飲ませてください』と頼んでみます。その娘が、『どうぞ、お飲みください。らくだにも飲ませてあげましょう』と答えれば、彼女こそ、あなたがあなたの僕イサクの嫁としてお決めになったものとさせてください。そのことによってわたしは、あなたが主人に慈しみを示されたのを知るでしょう。」僕がまだ祈り終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せてやって来た。彼女は、アブラハムの兄弟ナホルとその妻ミルカの息子ベトエルの娘で、際立って美しく、男を知らない処女であった。彼女が泉に下りて行き、水がめに水を満たして上がって来ると、僕は駆け寄り、彼女に向かい合って語りかけた。「水がめの水を少し飲ませてください。」すると彼女は、「どうぞ、お飲みください」と答え、すぐに水がめを下ろして手に抱え、彼に飲ませた。” - 創世記24章11-17節
ヤコブはその旅を続けて東の民の地へ行った。見ると野に一つの井戸があって、そのかたわらに羊の三つの群れが伏していた。人々はその井戸から群れに水を飲ませるのであったが、井戸の口には大きな石があった。~~彼らは言った、「わたしたちはそれはできないのです。群れがみな集まった上で、井戸の口から石をころがし、それから羊に水を飲ませるのです」。ヤコブがなお彼らと語っている時に、ラケルは父の羊と一緒にきた。彼女は羊を飼っていたからである。ヤコブは母の兄ラバンの娘ラケルと母の兄ラバンの羊とを見た。そしてヤコブは進み寄って井戸の口から石をころがし、母の兄ラバンの羊に水を飲ませた。ヤコブはラケルに口づけし、声をあげて泣いた。” - 創世記29章1-2, 8-11節
”パロはこの事を聞いて、モーセを殺そうとした。しかしモーセはパロの前をのがれて、ミデヤンの地に行き、井戸のかたわらに座していた。さて、ミデヤンの祭司に七人の娘があった。彼女たちはきて水をくみ、水槽にみたして父の羊の群れに飲ませようとしたが、羊飼たちがきて彼女らを追い払ったので、モーセは立ち上がって彼女たちを助け、その羊の群れに水を飲ませた。” - 出エジプト記 2章15-17節

しかもイエスはここでサマリアの女に結婚関係に関する話題を振っている。

女はイエスに言った、「主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここにくみにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい」。イエスは女に言われた、「あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい」。女は答えて言った、「わたしには夫はありません」。イエスは女に言われた、「夫がないと言ったのは、もっともだ。あなたには五人の夫があったが、今のはあなたの夫ではない。あなたの言葉のとおりである」。” - ヨハネによる福音書4:15-18

しかしここで上記@kandeitsuki氏のまとめでブラント・ピトル氏が述べているようにこの「五人の夫」の話は単なる結婚関係の話ではないかもしれない。女の次の言葉からも何か実は宗教的な意味を含んだ話題である可能性が高い。

”「~あなたには五人の夫があったが、今のはあなたの夫ではない。あなたの言葉のとおりである」。女はイエスに言った、「主よ、わたしはあなたを預言者と見ます。わたしたちの先祖は、この山で礼拝をしたのですが、あなたがたは礼拝すべき場所は、エルサレムにあると言っています」。” - ヨハネによる福音書4:18-20

ここでこの女の「過去の五人の夫」と「今の者」がサマリアの五柱の男神とヤハウェを指しているとすれば、「今の者は夫ではない」というイエスの言明は、サマリア女性に対する「ヤハウェに対する忠節が成立していない」という言明にもとれる。それで女はヤハウェ崇拝に関して、場所の正当性の話と思って問いかけ直したのではないだろうか。

サマリア人はゲリジム山を中心にサマリア五書(モーセ五書)に基づく祭儀制度を持っており、ヤハウェ信仰が存在した。しかし同時に異教神崇拝も存在し、その神々のリストは列王記下の北イスラエル王国滅亡(BC 722)後のサマリアの様子の描写に見える。

”アッシリアの王は命じた。「お前たちが連れ去った祭司の一人をそこに行かせよ。その祭司がそこに行って住み、その地の神の掟を教えさせよ。」こうして、サマリアから連れ去られた祭司が一人戻って来てベテルに住み、どのように主を畏れ敬わなければならないかを教えた。しかし、諸国の民はそれぞれ自分の神を造り、サマリア人の築いた聖なる高台の家に安置した。諸国の民はそれぞれ自分たちの住む町でそのように行った。バビロンの人々はスコト・ベノトの神を造り、クトの人々はネレガルの神を造り、ハマトの人々はアシマの神を造り、 アワ人はニブハズとタルタクの神を造り、セファルワイム人は子供を火に投じて、セファルワイムの神々アドラメレクとアナメレクにささげた。彼らはを畏れ敬ったが、自分たちの中から聖なる高台の祭司たちを立て、その祭司たちが聖なる高台の家で彼らのために勤めを果たした。このように彼らは主を畏れ敬うとともに、移される前にいた国々の風習に従って自分たちの神々にも仕えた。” - 列王記下16:27-33

ここで①スコトベノト、②ネレガル、③アシマ、④ニブハズ&タルタク、⑤アドラメレク&アナメレクの異教神が七柱が登場し、そこに二組の夫婦神が含まれるため、五グループの神、男神で言えば五柱という構造になっている。そしてサマリア人は⑥主(ヤハウェ)も畏れ敬ったとある。

ブラント・ピトル氏が指摘することとして、これらのサマリアの神々は「バアル(主人)」という呼称も用いられていたらしい。

特に、⑤のアドラメレクは別名として「バアル・アッディール」という呼称もあったようである。「バアル」は「夫」の意味もある言葉であり、イエスが「あなたの夫を連れてきなさい」と言った時の「夫」自体に宗教的意味合いが込められていたかもしれない。

”その日が来ればと/主は言われる。あなたはわたしを、「わが夫(イシュ)」と呼び/もはや、「わが主人(バアル)」とは呼ばない。 わたしは、どのバアルの名をも/彼女の口から取り除く。もはやその名が唱えられることはない。” - ホセア2:16-17 (2:18-19)

ホセアは北イスラエル王国に対して語っており、つまりは後のサマリア地域の人々に対して語っている。そして「どのバアルの名も取り除く」と言っているということは、複数の神々が「バアル」と呼ばれていたとも読み取れる。

おそらくこのサマリアの女は異教崇拝の文化の下で五柱の男神を主人(バアル)としてきたが、しかし父祖ヤコブへの崇敬心が発言に見られることから、どちらかと言うとよりイスラエルの神であるヤハウェを主人(バアル)として崇拝する状態にあったのだろう。この状態を指してイエスは「あなたには五人の夫がいたが今の者は夫ではない」と述べているのではないだろうか。そしてそれはサマリアの女によるヤハウェ崇拝は何か足りていないということを示唆しているため、それに対してサマリアの女は「ヤハウェを崇拝する場所としてサマリアとエルサレムのどちらが正当か」を問いかけた、という流れならば、ここの飛躍しているように見えた議論が繋がるだろう。イエスはそれに対してこう答える。

イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救はユダヤ人から来るからである。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。” - ヨハネによる福音書4:21-24

イエスはそれに対してある場所の特別性は失われる時代に入ったことを告げる。実際これは紀元70年の神殿崩壊で決定的なものとなるが、当時としては非常にインパクトのあるメッセージであったと思われる。そのような重大な宣言に対して、サマリアの女は「一切のことを知らせるメシア」についての話を振る。

”女はイエスに言った、「わたしは、キリストと呼ばれるメシヤがこられることを知っています。そのかたがこられたならば、わたしたちに、いっさいのことを知らせて下さるでしょう」。イエスは女に言われた、「あなたと話をしているこのわたしが、それである」。そのとき、弟子たちが帰って来て、イエスがひとりの女と話しておられるのを見て不思議に思ったが、しかし、「何を求めておられますか」とも、「何を彼女と話しておられるのですか」とも、尋ねる者はひとりもなかった。この女は水がめをそのままそこに置いて町に行き、人々に言った、「わたしのしたことを何もかも、言いあてた人がいます。さあ、見にきてごらんなさい。もしかしたら、この人がキリストかも知れません」。” - ヨハネによる福音書 4:25-29

サマリアの女はこの問答においてイエスをキリストと認めたように見える。ここで弟子たちは、女と話していることを不思議に思いつつも、「何を彼女と話しておられるのですか」とは尋ねなかった、とある。それが無粋なことであると悟っていたということだろうか。

イエスとこのサマリアの女の婚姻関係は明白ではないが、他にも傍証がある。イエスはユダヤ人たちに「サマリア人」呼ばわりされているのである。

”ユダヤ人たちが、「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」と言い返すと、イエスはお答えになった。「わたしは悪霊に取りつかれてはいない。わたしは父を重んじているのに、あなたたちはわたしを重んじない。わたしは、自分の栄光は求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」” - ヨハネによる福音書 8:48-51

イエスはダビデ王家に生まれたユダヤ人である。彼のメシア性を否定しようとするユダヤ人勢力が用いる論理において、彼の出身地が問題にされることはあっても、彼の血統が問題とされることがないことからも、彼がダビデ王家の血筋であることは周知の事実であったと思われる。しかしここで「サマリア人」と呼ばれるのはなぜだろうか。しかも重要なことに、イエスはここで「サマリア人で悪霊に取りつかれている」という言明の後半のみを否定し、「サマリア人である」というレッテル貼りには抵抗していない。イエスにはサマリア人の血が少し入っていた、イエスがあまりにもサマリア人と親しかった、などの解釈もあると思われるが、一つの解釈として、イエスの婚約者がサマリア人であったこともあり得るのではないだろうか。

さて、ここで「サマリア人であること」と「悪霊に取りつかれていること」がユダヤ人たちによって結び付けられている。悪霊とは何だろうか。一つの解釈として、サマリア人が取りつかれる悪霊とは、サマリアの五神、あるいは七神のことを言うのではないだろうか。悪霊と異教神の概念は非常に近いことが以下の申命記の言明などからも読み取れる。

”彼らは他の神々に心を寄せ/主にねたみを起こさせ/いとうべきことを行って、主を怒らせた。 彼らは神ならぬ悪霊に犠牲をささげ/新しく現れ、先祖も知らなかった/無縁の神々に犠牲をささげた。” - 申命記 32:16-17

ここで「悪霊に犠牲をささげ」とあることから、悪霊を崇拝する体系も存在するということがわかる。しかしここで非難されているのは悪霊を悪霊として崇拝をする人々ではないだろう。異教神を崇拝する人々を、悪霊を崇拝していると見なして非難しているのだ。サマリアの五神、あるいは七神もユダヤ人から見れば悪霊であり、その崇拝者は「悪霊に取りつかれている」のである。

特に、先ほど登場したサマリアの七神のうちのアドラメレク(バアル・アッディール)とアナメレクについては以下のように言及されている。

”セファルワイム人は子供を火に投じて、セファルワイムの神々アドラメレクとアナメレクにささげた。” - 列王記下 16:31

詩編では「悪霊」に子どもを捧げる宗教を非難している。

”主が命じられたにもかかわらず/彼らは諸国の民を滅ぼさず 諸国の民と混じり合い/その行いに倣い その偶像に仕え/自分自身を罠に落とした。 彼らは息子や娘を悪霊に対するいけにえとし 無実なものの血を流した。カナンの偶像のいけにえとなった息子や娘の血は/この地を汚した。 彼らは自分たちの行いによって汚れ/自分たちの業によって淫行に落ちた。” - 詩編106編34-39

また、異教神崇拝が悪霊崇拝と見なされるのと他に、不貞や姦淫と結びつけて語られることも多い。それがホセア書のテーマの一つと言える。

”主がホセアに語られたことの初め。主はホセアに言われた。「行け、淫行の女をめとり/淫行による子らを受け入れよ。この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。」” - ホセア書 1:2

サマリアの女は五人の夫がいて、一人の夫ならぬ男と今共にいるが、それはサマリアの五柱の男神とヤハウェ神を象徴している。これが彼女の生涯がサマリアの歴史の映しとなっていたということなのか、実際にサマリアの神に仕えていたこと自体を「五人の夫がいた」と表現されたのかはわからないが、いずれにせよこの女性は当時のユダヤ人から見れば「姦淫の女、不貞の女」であり、その女性と井戸のところで出会う異邦の助け手は、「淫行の女をめとる」預言者ホセアの役割を継いでいると言える。

さて、このサマリアの女はイエス・キリストによって救いを得て、真に父なる神(ヤハウェ)を礼拝する者になったことだろう。

”イエスは答えて言われた、「もしあなたが神の賜物のことを知り、また、『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」。女はイエスに言った、「主よ、あなたは、くむ物をお持ちにならず、その上、井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れるのですか。あなたは、この井戸を下さったわたしたちの父ヤコブよりも、偉いかたなのですか。ヤコブ自身も飲み、その子らも、その家畜も、この井戸から飲んだのですが」。イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。女はイエスに言った、「主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここにくみにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい」。イエスは女に言われた、「あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい」。” ヨハネによる福音書4:10-16

サマリアの七柱の悪神から解放されたこのサマリアの女は、なんと紹介されたであろうか。

そう、ここで私は、この

サマリアの女とはマグダラのマリアである

と主張したい。

”すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。” ルカによる福音書 8:1-3

最初に述べたように、マグダラのマリアが七つの悪霊を追い出してもらった、という物語は明示的には存在しない。しかし実はヨハネによる福音書の「サマリアの女」の記事こそが、マグダラのマリアが七つの悪神から解放された物語だったのではないだろうか。

↑この記事でまとめたように、ヨハネによる福音書3章のエピソードは「証言者」の観点から重要である。このエピソードには当事者(イエスと女)以外の外部証言者がいないということが示唆されている。

”ひとりのサマリヤの女が水をくみにきたので、イエスはこの女に、「水を飲ませて下さい」と言われた。弟子たちは食物を買いに町に行っていたのである。すると、サマリヤの女はイエスに言った、「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女のわたしに、飲ませてくれとおっしゃるのですか」。これは、ユダヤ人はサマリヤ人と交際していなかったからである。” ヨハネによる福音書 4:7-9

つまりこの話は、イエス自身が伝えたか、サマリアの女自身が伝えた話ということになる。ヨハネの福音書中にはもう一つ、証言者の観点から非常に重要なエピソードがあり、それこそがマグダラのマリアへの顕現である。

マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。” - ヨハネによる福音書20章11-18節

復活の主がマグダラのマリアに現れたことは三つの共観福音書全てで証言されているが、顕現の際の具体的な様子について語っているのはヨハネによる福音書だけである。これは著者による創作エピソードでなければ、ヨハネによる福音書の証言者の一人として何らかの形でマグダラのマリア本人が関わっているということを意味する。(少なくともマグダラのマリア本人から話が聞けた人物がヨハネ福音書著者が証言を得られる範囲にいたということになる)

サマリアの女とイエスとのクローズドな会話も、もちろんこれがマリアと独立の女性で、独立にこの女性も証言者となったと考えることはできるが、この女性がマグダラのマリア本人であったならば話はわかりやすい。

イエスの婚約者はサマリアの女であり、サマリアの女とは七つの悪神から解放されたマグダラのマリアと同一である、というのが暫定的な結論だ。

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