『マタイによる福音書注解』第十巻 第十七章 イエスの兄弟たち(オリゲネス)

http://www.newadvent.org/fathers/101610.htm

「どこでこの人はこの知恵を…」[マタイ13:54]との言葉は、イエスの諸々の言葉のうちに大いなる卓越した知恵があったことを明白に示唆する。それは以下の言葉に値するものである。「見よ、ここにソロモンより大いなるものがある。」[マタイ12:42]そして彼はエリヤとエリシャを通して遂行された諸々のことよりも、また更に以前の時代にモーセとヌンの子ヨシュアによって[遂行された]諸々のことよりも大いなる諸々の奇跡を為すことが常であった。そして彼らは不思議に思ってこのように話した。それは彼が処女の子であったことを知らないか、もしくはそう告げられていてもそれを信じていなかったかで、彼が工人ヨセフの子であると思ってのことであった。「これは工人の子ではないか?」[マタイ13:55]そして彼の近親と思われる者たち全体を軽視しながら彼らはこう言った。「彼の母はマリアと呼ばれる者ではないか?そして彼の兄弟たちは、ヤコブとヨセフとシモンとユダではないか?そして彼の姉妹たちは、みな我らと共にいるではないか?」[マタイ13:55-56] それで彼らは、彼がヨセフとマリアの子であると考えていた。しかしある者たちは、ペテロによる福音書と冠されたものや、あるいはヤコブ書における伝承に基づいて、イエスの兄弟たちはヨセフの、彼がマリアの前に結婚していた前妻の子らであると言っている。さてそのように言う者たちは処女性におけるマリアの名誉をその[生涯の]終わりまで保存することを望んでいるのである。それは彼女の体、すなわち「聖霊があなたに臨むことになり、いと高き方の力があなたを覆うことになる」[ルカ1:35]と言う「言葉」に奉仕するべく任命されたものが、彼女のうちに聖霊が臨み、彼女をいと高き方の力が覆った後で、ある男と性交渉することのないようにするためである。私もそれを以下の理路と調和しているように考えている。すなわちイエスは、貞節から成る純粋さに属する男性のうちの初穂であり、マリアがそのような女性の初穂であるということである。というのも彼女に対しての他に、「処女性の初穂」を帰すことは、不敬虔ではないだろうか。そしてヤコブはパウロがガラテヤ人への手紙において彼が会ったとする者である。「しかし他の使徒たちには、主の兄弟ヤコブを除いては、私は誰も会わなかった。」[ガラテヤ1:19] そしてこのヤコブは、義のために民の間で非常に大いなる評判を得るまでになり。それはフラウィウス・ヨセフス、すなわち二十巻のユダヤ古代誌を書いた者が、神殿さえもが崩壊させられるほどの大いなる不幸を民が被った理由を示そうと望んだ際に、「これらのことが彼らに起こったのは、キリストと呼ばれたイエスの兄弟ヤコブに対して彼らが敢えて行った諸々のことの結果についての神の怒りに従ってのことであった」と言ったほどであった。驚くべきことは、彼はイエスをキリストとして受け入れていないが、それでもヤコブの義が非常に大いなるものであったことを証言していることである。そして民は自分たちがこれらのことを被ったのはヤコブのゆえであると考えていたと言っている。そしてユダ、すなわちわずかの行数の、しかしそれでも天的な恵みの健康な諸々の言葉で満たされた手紙を書いた者は、その序文において、「ユダ、すなわちイエス・キリストのしもべでありヤコブの兄弟である者」[ユダ1]といった。ヨセフとシモンに関しては我々は何も告げられていない。しかし「彼の姉妹たちはみな我々と共にいるではないか?」[マタイ13:56]という言葉は私には何らかの以下のような性質について示していると思われる。すなわち彼女らは我々のようなことを思考しており、イエスのように思考しておらず、イエスが持っているような卓越した知恵の非凡な分け前を持っていないということである。そしてひょっとするとまさにこれらのことによって彼に関する新たな疑いが示唆される。すなわちイエスは人ではなく何らかの神的な者であり、彼らが思うに彼はヨセフとマリアの子で、四人と他の女性たちの兄弟でもありながら、それでも彼の親戚のどの一人にも似ておらず、そのような知恵と力の高みに教育や訓練によっらずに達しているということである。というのも彼らは別のところでこのようにも言っている。「この男は習いもせずにいかにして書を知ったのか?」[ヨハネ7:15]これはここで言われていることと似ている。彼らはこれらのことを言っているが、非常に当惑し驚かされているだけで、彼らは信じず、彼に立腹した。あたかも彼が受難のときに十字架上で勝利のうちに導こうとしている力によって彼らの心の目が制されていたかのようである。


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