黙示録の執筆年代はいつか:『ヨハネの黙示録』が紀元54年以前に書かれた可能性について

"わたしはキリストにあるひとりの人を知っている。この人は十四年前に第三の天にまで引き上げられた――それが、からだのままであったか、わたしは知らない。からだを離れてであったか、それも知らない。神がご存じである。
この人が――それが、からだのままであったか、からだを離れてであったか、わたしは知らない。神がご存じである――パラダイスに引き上げられ、そして口に言い表わせない、人間が語ってはならない言葉を聞いたのを、わたしは知っている。わたしはこういう人について誇ろう。しかし、わたし自身については、自分の弱さ以外には誇ることをすまい。"
コリント人への第二の手紙 12:2

このパウロの真筆と認められている書簡に登場される「十四年前に第三の天に上げられた人物」について、これがパウロ本人のことである、という解釈が為されることが多い。しかしよくここだけを素直に読んでみれば、パウロは自分のことでなく、他の誰かのことについて述べているという文面になっている。

この「第三の天に上げられた人物」とは誰だろうか。もちろん、無名の、知られざる人物の可能性も高い。しかし、「天に上げられる」という現象・言葉は、今以上に1世紀において意味深い。使徒言行録において使徒ペテロは以下のように述べている。

"兄弟たちよ、族長ダビデについては、わたしはあなたがたにむかって大胆に言うことができる。彼は死んで葬られ、現にその墓が今日に至るまで、わたしたちの間に残っている。彼は預言者であって、『その子孫のひとりを王位につかせよう』と、神が堅く彼に誓われたことを認めていたので、キリストの復活をあらかじめ知って、『彼は黄泉に捨ておかれることがなく、またその肉体が朽ち果てることもない』と語ったのである。このイエスを、神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである。それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである。ダビデが天に上ったのではない。彼自身こう言っている、『主はわが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足台にするまでは、わたしの右に座していなさい』。"
使徒行伝 2:29

ヨハネの福音書においてもこのように語られている。

"天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、だれも天に上った者はない。"
ヨハネによる福音書 3:13

天に上るという事柄は、イエスにおいて初めて成し遂げられた特殊なことと言える。

もちろん、ほかに、旧約聖書において一人、天に上ったと表現される人物がいる。預言者エリヤである。

"主がつむじ風をもってエリヤを天に上らせようとされた時、エリヤはエリシャと共にギルガルを出て行った。"
列王紀下 2:1

もしイエスの他に天に上った人がいないというならば、じゃあエリヤはどうなんだ、と考えた時に、「天に上った」の意味の違いがあるのかもしれない、つまり天(ヘブライ語だと複数形のような語尾を持っている単語でギリシア語で複数で訳されることが多い)という概念に何か場所分けや階層のようなものがあるのかもしれない、と考えることができる。
それが実際に示唆されているのが第二コリント書のこの部分と言える。

"わたしはキリストにあるひとりの人を知っている。この人は十四年前に第三の天にまで引き上げられた――それが、からだのままであったか、わたしは知らない。からだを離れてであったか、それも知らない。神がご存じである。
この人が――それが、からだのままであったか、からだを離れてであったか、わたしは知らない。神がご存じである――パラダイスに引き上げられ、そして口に言い表わせない、人間が語ってはならない言葉を聞いたのを、わたしは知っている。わたしはこういう人について誇ろう。しかし、わたし自身については、自分の弱さ以外には誇ることをすまい。"
コリント人への第二の手紙 12:2

この人物は、イエスと同じ"階層"かどうかはわからないが、天のうちの比較的高い階層に上った、ということが「第三の天」という言葉で示されているように思われる。
このようなキリスト教史上極めて重要と思われる出来事について、何か他に新約聖書に痕跡が残っていないものだろうか。

使徒言行録での話を思い出すと、天に上るという表現はないが、例えば、特に顕著な出来事として、「ステファノが天上のイエスを見る(使徒7章) 」という出来事などはこう表現されてもおかしくないかもしれないし、パウロが特別に紹介する話として適合するように思える。

しかし残念ながらこれは年代的に除外される。第二コリント書の執筆は、使徒言行録で言うと紀元51年頃に終了したと思われる1年半に渡るパウロのコリント宣教よりは少なくとも後に書かれている。つまりそれより14年前の出来事というのは、紀元37年よりは後の出来事ということになる。

またガラテヤ書1-2章によるとパウロは回心のあと3年後にエルサレムで一部の使徒たちと会い、その14年後に使徒会議(使徒15章)に出席しているように読める。コリント宣教の終了は使徒会議の1年半以上後であるため、パウロの回心からコリント宣教の終了までは3+14+1.5=18.5年以上経っている。そのためパウロの回心直前に起こったステファノの幻は第二コリント書で書かれた「十四年前の出来事」には当てはまらない。

他にステファノのように天上の幻を見た人物はいないだろうか。使徒行伝では他に顕著な神秘体験としてパウロ自身の回心などもあるがそれも年代的に不適である。他の書物に何かステファノやパウロのような神秘体験が起こった人物が出てこないだろうか。ここで思いつく一つの候補が、『ヨハネの黙示録』である。

しかもなんと、この書の著者は自身の体験について「天に上る」ものであったと叙述している。

"その後、わたしが見ていると、見よ、開いた門が天にあった。そして、さきにラッパのような声でわたしに呼びかけるのを聞いた初めの声が、「ここに上ってきなさい。そうしたら、これから後に起るべきことを、見せてあげよう」と言った。"
ヨハネの黙示録 4:1

パウロは十四年前に顕著な体験をした人物がパラダイスに挙げられたと言っているが、『ヨハネの黙示録』の著者も自分がパラダイスを見たと主張している。

"耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう』。" ヨハネの黙示録 2:7
"御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。" ヨハネの黙示録 22:1-2

またパウロは十四年前に顕著な体験をした人物が「口に言い表わせない、人間が語ってはならない言葉を(αρρητα ρηματα α ουκ εξον ανθρωπω λαλησαι)聞いた」としている。この「人間が」となってるところは与格(間接目的語)であり、"It is unlawful for people to speak"(人間にとって語ることが許されない)と訳されることが多いが、"It is unlawful to speak to people"(人間に対して語ることが許されない)と訳すこともできる。

いずれにせよ、『ヨハネの黙示録』著者も、何らかの語ることが許されない言葉を聞いたと主張している。

"彼は、開かれた小さな巻物を手に持っていた。そして、右足を海の上に、左足を地の上に踏みおろして、ししがほえるように大声で叫んだ。彼が叫ぶと、七つの雷がおのおのその声を発した。七つの雷が声を発した時、わたしはそれを書きとめようとした。すると、天から声があって、「七つの雷の語ったことを封印せよ。それを書きとめるな」と言うのを聞いた。" ヨハネの黙示録 10:2-4

そしてパウロはこのことを語り始める時、主の諸々の幻と啓示について(εις οπτασιας και αποκαλυψεις κυριου)語る、と言い出して主に二つの事柄を語っている。一つは「十四年前にある人に起こったこと」であり、もう一つは7節以下の「パウロ自身に与えられた"とげ"と言葉」である。

『ヨハネの黙示録』著者も、自分に与えられたものが「キリストの啓示」であると宣言している。

"イエス・キリストの黙示(Αποκαλυψις Ιησου Χριστου)。この黙示は、神が、すぐにも起るべきことをその僕たちに示すためキリストに与え、そして、キリストが、御使をつかわして、僕ヨハネに伝えられたものである。" ヨハネの黙示録 1:1

話を戻して、なぜこの箇所がパウロ自身の体験を語っていると解釈されることが多いのだろうか。それはこの箇所に続く言明のためと思われる。

"わたしはこういう人について誇ろう。しかし、わたし自身については、自分の弱さ以外には誇ることをすまい。もっとも、わたしが誇ろうとすれば、ほんとうの事を言うのだから、愚か者にはならないだろう。しかし、それはさし控えよう。わたしがすぐれた啓示(αποκαλυψις)を受けているので、わたしについて見たり聞いたりしている以上に、人に買いかぶられるかも知れないから。"
コリント人への第二の手紙 12:5-6

ここでパウロ自身が優れた啓示を受けていると述べているため、前述の「天に上る体験」がパウロ自身による体験だと解釈されることが多いのだということがわかる。しかしもしパウロが『ヨハネの黙示録』についてここで述べているとすれば、この5-6節で「私が優れた啓示を受けている」としてるのはどういうことだろうか。

これはもしかすると、黙示録中にパウロに関わる預言が含まれる、ということを意味するかもしれない。以前の記事で黙示録は共観福音書の注解としての役割を指向しているという見解を示したが、黙示録の独自性の強いものとして
「七つの教会への宣明」「七つの雷の奥義」「二人の証人」「七つの鉢の裁き」「千年王国と新天新地」
のモチーフ(?)があると思われる。
ここから「二人の証人」のうちの一人がパウロではないか、というアイディアを検討したことがある。今のところの暫定的な結論はこれと違うが、パウロと密接に関わる、ある人物がこの考察から浮かび上がってきた。以下の記事でまとめていく予定。

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決定的ではないが、これまでの考察から、今のところ、第2コリント書でパウロが紹介している「十四年前に第三の天に上った」人物は、『ヨハネの黙示録』の著者であろうと個人的には思っている。

するとパウロ書簡の解釈がかなり変わる。パウロ書簡には復活や再臨とラッパのモチーフが何度も結び付けられて出てくるが、これが黙示録に基づいたものであると考えることができるのである。

"すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、" テサロニケ人への第一の手紙 4:16

ただしラッパと再臨を結びつけるのはイエスの言葉にも出てくる(マタイ24:31)が、以下の箇所などは、ラッパが複数あることと、そのラッパの最後に重大なことが起こることを述べている。

"ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。"
コリント人への第一の手紙 15:51-52

黙示録では七つ目のラッパが吹かれた後、七つの鉢が登場するまでの間に主に三つのことが書かれている。

①「女」が荒れ野に逃避する
②「獣」が活動を開始する
③「人の子」が雲に乗って到来する

この③の際の黙示録の以下の箇所が、パウロのいう復活を表現したものであろう。

"彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。"
ヨハネの黙示録 14:4

コリント書15章で"初穂"という表現は復活のイエスに用いられている。

"しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。"
コリント人への第一の手紙 15:20

パウロ書簡の少なくともいくつかより前に黙示録が書かれたという証言は実は古代にも存在する。

紀元200年頃のムラトリ断片によれば、パウロは「ヨハネに倣って」七つの教会に書簡を出したとされており、これはつまりヨハネの黙示録がパウロ書簡七つが出され終わる前に書かれた、ということを意味している。

実際、最も早い段階(AD51頃)に書かれたとされるテサロニケの信徒への手紙第一での再臨に関する記述が黙示録にも基づいている可能性がある、ということを先述した。

パウロの殉教は「ネロ帝の迫害下」という伝承が古代から各地の教会にあるためこれを信じるとすると、ローマ大火のあったAD64年からネロ帝が没するAD68年の間ということになる。第2コリント書はパウロの真筆と認められているためこれを信じるとすると、AD68以前に書かれている。
つまり、第2コリント書で14年前に第三の天に上げられた人がいる、という言明が『ヨハネの黙示録』の著者に関するものであったとすれば、黙示録はAD54以前に書かれている、ということになる。

また、さらに、パウロの全ての書簡より前に書かれたとすると、AD51以前に書かれたということになる。

さて、ここで、黙示録が紀元1世紀半ば以前に書かれたと考えると、いくつか疑問が生じる。黙示録は3世紀以前のほぼ全ての伝承では使徒ヨハネに帰されており、4世紀以降の見解でも使徒ヨハネと何らかの関係があった人物によるものとされることが多いが、いずれにせよ黙示録著者のパトモス島への流刑は紀元90年代というイメージが強い。

この見解に関しては2世紀のリヨン司教エイレナイオスによる証言が根拠として重要なものとなっている。

しかしながら、私たちは反キリストの名について陽には声に出す危険性を冒さないようにしよう。というのも彼の名がはっきりとこの現在の時代に明らかにされるべき必要性があったのなら、黙示的幻視を観た彼によって宣告されてきたはずだからである。というのも、それ[or 彼]は非常に長い時代前に見られたのではなく、ほとんど我々の世代に対して近くに[見られた]のであり、ドメティアノス[ドミティアヌス]の治世の末期[or 目的]に向けて[見られた]のである。 - エイレナイオス『異端反駁』5.30

エイレナイオスは黙示録の幻(特に獣の数字とその解釈)について述べる際に、それが「ドメティアヌスの(Δομετιανου)統治の終わりに向けて(προς τω τελει)見られた(εωραθη)」としている。このドメティアヌスは一般的にフラウィウス朝のドミティアヌス帝(ティトゥス ・フラウィウス・ドミティアヌス)のことと解釈されており、よってその在位期間である紀元81年から96年の間に黙示録の執筆年代が推定されることが多い。この紀元90年代とする解釈は、エイレナイオスがその直前に「自分たちの世代から遠くない時代」という話を述べていることからも、自然な解釈と言える。また、一般的に、「キリスト教に対する迫害はネロ帝の時期は帝国全体に及んだものではなくローマ市周辺に限定されており、従って小アジア(トルコ)でのキリスト教への迫害に対する危機意識が見られる黙示録はドミティアヌス帝以降の迫害期に書かれた」という説が支持されている。

しかしエイレナイオスによる証言は別の解釈の余地がいくつかある。

①「黙示を見た者によって宣告されたはずである。というのも彼は長い時代前ではなく、我々の世代に近く、ドミティアヌス帝の治世末期まで[人々に彼は]会われていたのである」と訳出するパターン

…この場合、黙示録著者「ヨハネ」がドミティアヌス帝の治世末期まで人々の間にいたので、黙示録の解釈を本人から聞くことができたはずである、という話になり、黙示録執筆年自体に関してはドミティアヌス帝の時と限らなくなる。この解釈の弱点は、「黙示録を見た者」と「彼は会われていた」が同単語を訳し分けている点[ただしこの章の最初に同単語が「ヨハネと会った者たち」という意味合いで使われている]と、エイレナイオスは少なくとも福音記者の方の「ヨハネ」に関してはトラヤヌス帝期までエフェソスで存命であったと証言している点である。(3巻3章

②「というのもそれ[黙示録]は長い時代前でなく我々の世代に近い[時代]に、ドミティアヌス帝の治世のために示されたのである。」と訳出するパターン

…これは”τελος”を「目的」と解釈するもの。黙示録執筆の時期の話は「我々の世代に近い」という話までで、最後の「ドミティアヌス帝の治世」というのは黙示録が何のために啓示されたかの目的の話であるという解釈になる。この説の弱点は、ドミティアヌスより更に前の時代にドミティアヌス帝期のために書かれたとすると、それがエイレナイオスにとって「我々の世代に近い」と言いうるのか?という問題がある。

③(①', ②')「ドミティアヌス」をネロ帝のことと解釈する。

「ドミティアヌス」の呼称を持ちうる1世紀の皇帝は実はティトゥス・フラウィウス・ドミティアヌス(在位81-96)だけではない。

ネロ帝(ネロ・クラウディウス・カエサル、在位54-68)の幼名は「ルキウス・ドミティウス・アヘノバルブス」である。

即位名に含まれる「クラウディウス・カエサル」という「氏族名・家族名」は継父であるクラウディウス帝(ティベリウス・クラウディウス・カエサル、在位41-54)から継いだものであるが、ネロ帝は父系血統においてはユリウス・クラウディウス朝を構成したユリウス氏族・クラウディウス氏族の系統にはなく、「ドミティウス」氏族の出身である。

紀元前の独裁官ガイウス・ユリウス・カエサルと、ユリウス・クラウディウス朝の五人の皇帝のうち、幼名がユリウス氏族でもクラウディウス氏族でもない人物はネロ帝の他にもう一人おり、それが初代皇帝アウグストゥス(ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス、在位BC25-AD14)である。彼の幼名は「ガイウス・オクタウィウス・トゥリヌス」であり、独裁官カエサルの養子となったため「ユリウス」の氏族名を名乗るが、人々は「オクタウィウス氏族に属する者」を意味する通称「オクタウィアヌス」を用いたとされる。

アウグストゥス(オクタウィアヌス)の例に倣うならば、ユリウス氏族でもクラウディウス氏族でもない父親から生まれたネロ帝は、もとの氏族名を使って「ドミティウス氏族に属する者(ドミティアヌス)」と呼ばれ得ると言える。

この解釈を採用した場合、黙示録の執筆時期か、著者の活動時期(①')か、執筆目的(②')がネロ帝の治世に関連しているということになる。


このようにエイレナイオスの証言は非常に重要であるが解釈の余地が少々広く、単独でフラウィウス朝のドミティアヌス帝(在位81-96)の治世に黙示録が執筆されたと結論付ける証拠とはなり得ない。エイレナイオス以外の初期教父で比較的重要な証言としてアレクサンドリアのクレメンスによる言及(Quis Dives Salvetur, 42)がある。

これは…使徒ヨハネについてである。かの暴君の死に際して、彼はパトモス島からエフェソスに帰還した。- アレクサンドリアのクレメンス ”Quis Dives Salvetur” 42

アレクサンドリアのクレメンスがここで言及している「使徒ヨハネ」はパトモス島に流刑にされていた『黙示録』の著者であると思われる。しかしクレメンスはここでこの暴君が誰のことか名前を明示していない。キリスト教徒を迫害した暴君と言えばネロ帝とドミティアヌス帝がいるが、どちらか判断はできず、またこれ以外の可能性もある。4世紀の教会史家エウセビオスはこのクレメンスの証言に登場する「暴君」を「ドミティアヌス帝」と解釈しているが、彼の証言もエイレナイオスの証言をドミティアヌス帝に関するものとする解釈に拠ったものであると予想される。

オリゲネスも「ヨハネ」のパトモス流刑について言及しているが、それがローマ皇帝による措置であることを伝えているものの、その名を明示していない。(マタイの福音書注解16巻、6章)

ゼベダイの子らはその杯を飲み、その洗礼を受洗した。というのもヘロデが「ヨハネの[兄弟]ヤコブを剣をもって」殺し、伝承が教えるように、かのローマ皇帝が真理の言葉について証言したヨハネを弾劾しパトモス島へ[追いやった]のである。- オリゲネス『マタイの福音書注解』16.6


実はエイレナイオスの証言にはドミティアヌスの名が登場するものの、『黙示録』著者がパトモス島に流刑された出来事をドミティアヌス帝の頃とみなす証言はエイレナイオスの著作中には見出されない。

『黙示録』著者「ヨハネ」の流刑をドミティアヌス帝の頃とする見方と異なる見方も古代から存在し、最も有名なものはサラミスのエピファニオスによる証言である。(『パナリオン』51.12.2, 51.33.8)

[ルカの]のちに、ヨハネは、その慎重さと謙虚さから福音記者となることを拒んできたが、聖霊に強く促されて老齢で福音[書]を生み出すことになった。それはクラウディウス・カエサルのもとでパトモスから帰還し、何年かエフェソスで居住した後で、九十[歳]を過ぎていた頃であった。- サラミスのエピファニオス『パナリオン』51.12.2
それは聖ヨハネの口によって[聖霊]が預言的に予告したことである。[ヨハネ]は、眠りにつく前に、クラウディウス・カエサルの時代とそれ以前の[時代]に、パトモス島にいた時、預言した。- サラミスのエピファニオス『パナリオン』51.33.8

エピファニオスは福音記者ヨハネと黙示録著者と思われるパトモス島に流刑されたヨハネを同一視しており、さらにそのヨハネのパトモスからの帰還を「クラウディウス・カエサル」の頃としている。この「クラウディウス・カエサル」がクラウディウス帝(在位41-54)のことであるとすると、ヨハネが流刑され、黙示録の幻を見たのはクラウディウス帝の治世が終わる以前(AD54以前)ということになる。これは最初の考察(第二コリント書に登場する「十四年前に天に引き上げられた」パウロ(AD68までに死没)の知人を『黙示録』著者とする説)と整合する。

ただし、1世紀の皇帝のうち、先述のようにネロ帝(在位AD54-68)も「クラウディウス」の氏族名を継いでいることと、ティベリウス帝(ティベリウス・ユリウス・カエサル、在位AD14-37)も出身氏族が「クラウディウス」氏族であることには一応注意が必要である。

クラウディウス帝の頃に『黙示録』著者が流刑地から帰還したということは、その人物を流刑に処したのはクラウディウス帝自身ではない可能性もあり、実際『パナリオン』ではクラウディウス帝より前の時代からヨハネがパトモスにいたと示唆されている。もし『黙示録』著者と十二使徒ヨハネを同一視する場合は特に、カリグラの治世(AD37-41)からパレスチナで王権を得るヘロデ・アグリッパ(在位AD37-44)によるキリスト者迫害の頃には、使徒言行録から使徒ヨハネの影が消えているということも、ヨハネの早い段階での流刑と整合しているように思える。

"そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。そして、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、更にペトロをも捕らえようとした。それは、除酵祭の時期であった。" 使徒言行録12:1-3
"ペトロは手で制して彼らを静かにさせ、主が牢から連れ出してくださった次第を説明し、「このことをヤコブと兄弟たちに伝えなさい」と言った。そして、そこを出てほかの所へ行った。" 使徒言行録12:7

使徒言行録の前半ではペテロは十二使徒ヨハネと共に行動している(使徒言行録8章まで)。しかしその後、十二使徒ヨハネは使徒言行録に登場しなくなり、ペテロもエルサレムを離れる時には主の兄弟ヤコブに報告しており、ヨハネの名は出てこない。ペテロと、ゼベダイの子ヤコブとヨハネという三人の筆頭使徒のうち、これから去る自分の他には、殺されたヤコブがいないのだから、残るリーダーであるヨハネが登場しても良さそうなものの、ペテロも使徒行伝の著者もヨハネについては言及していない。ヨハネは更に、ペテロや主の兄弟ヤコブが発言しているAD50頃の使徒会議(使徒言行録15章)でも言及されない。使徒言行録の8章を最後に筆頭使徒の一人がここまで無視されるのは、かなり初期からパレスチナにいなかった上に、使徒会議において戻って来ることも難しかったのではないだろうかという予測が立つ。

ただしここで、この予測と摩擦を起こすのが、ガラテヤ書におけるパウロのヨハネに関する言及であり、ここでは使徒会議の際にパウロが主の兄弟ヤコブ・ペテロ・ヨハネと会ったような読みも可能である。

その後十四年たってから、わたしはバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。その際、テトスも連れて行きました。エルサレムに上ったのは、啓示によるものでした。わたしは、自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、人々に、とりわけ、おもだった人たちには個人的に話して、自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求めました。しかし、わたしと同行したテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした。潜り込んで来た偽の兄弟たちがいたのに、強制されなかったのです。彼らは、わたしたちを奴隷にしようとして、わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由を付けねらい、こっそり入り込んで来たのでした。福音の真理が、あなたがたのもとにいつもとどまっているように、わたしたちは、片ときもそのような者たちに屈服して譲歩するようなことはしませんでした。おもだった人たちからも強制されませんでした。――この人たちがそもそもどんな人であったにせよ、それは、わたしにはどうでもよいことです。神は人を分け隔てなさいません。――実際、そのおもだった人たちは、わたしにどんな義務も負わせませんでした。それどころか、彼らは、ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知りました。割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働きかけた方は、異邦人に対する使徒としての任務のためにわたしにも働きかけられたのです。また、彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです。ただ、わたしたちが貧しい人たちのことを忘れないようにとのことでしたが、これは、ちょうどわたしも心がけてきた点です。” ガラテヤ書2:1-10

しかし聖書をよく読む人たちは、ここに関して不思議に思ったことはないだろうか。この「ヤコブとケファとヨハネ」がバルナバとパウロと握手した件が、使徒会議(AD51頃)の出来事であった場合、この「ヤコブ」は主の兄弟ヤコブであって、ゼベダイの子ヤコブではないと解釈されるが、「ヤコブとケファとヨハネ」という三人グループは十二使徒中でいつも特別扱いされていた三人を普通は想起する組み合わせであって、ゼベダイの子ヤコブの代わりに主の兄弟ヤコブをこの「三人のリーダー」として括るかのように見える箇所は聖書中でここだけである。このパウロが異邦人に遣わされたということを「三人のリーダー」が認証するという出来事は、パウロが大使徒たちとの関係について話す中で、使徒会議よりかなり前の出来事まで遡って述べている可能性はないだろうか。パウロはガラテヤ書によれば最初のエルサレム訪問ではペテロと主の兄弟ヤコブにしか会っていないが、その回心後の最初のエルサレム訪問(使徒言行録9章)と使徒会議でのエルサレム訪問(使徒言行録15章)の間に、アンティオケア教会からの援助を運ぶためのエルサレム訪問(使徒言行録11章)があり、それはヘロデ・アグリッパによる迫害(使徒言行録12章)より前に記述されていることから、ゼベダイの子ヤコブが存命であった可能性もある。


使徒ヨハネがヘロデ・アグリッパの迫害の頃までエルサレムにいて、三筆頭使徒の一人としてパウロとバルナバに認証を与えたのち、ヘロデ・アグリッパの迫害によってペテロが捕らえられ解放される頃には既にエルサレムにおらず、クラウディウス帝より前の時代からパトモスに流刑に処されており、クラウディウス帝の頃に黙示録を執筆して、パトモスからエフェソスへ帰還し、福音書をどこかの段階で書いたとすると、以下のような時系列になる。

AD33頃 パウロが回心

AD30s後半 ヨハネがパトモス流刑(ティベリウス帝(-37) or カリグラ帝(-41)治下)

AD41-54 パトモスで黙示録執筆、その後エフェソスへ帰還

AD50以降(おそらくAD60以降?) 福音書執筆

AD68以前 パウロ死去


少し時代が下って中世の情報になるが、11世紀のブルガリアの主教であるテオフィラクト(Teophylact)によれば四福音書はキリストの昇天後8年目(AD40前後)にマタイ福音書、10年目(AD40s前半)にマルコ福音書、15年目(AD40s半ば)にルカ福音書、32年目(AD60s前半)にヨハネ福音書が書かれたとされている。興味深いことに、マタイによる福音書のヘブライ語からギリシア語への翻訳はヨハネによって為されたという説もあると彼は伝えている。

それで、マタイが第一に福音[書]を書いた。ヘブル語で、信じるユダヤ人たちのために、キリストの昇天の八年後に[書いた]。ヨハネがそれをヘブライ語からギリシア[語]へ翻訳したとも言われる。 - Teophylact

10世紀のアレクサンドリアのエウテュキウスによる『年代史』でもマタイの福音書のヘブライ語からギリシア語への翻訳は福音記者ヨハネによって為されたとされている。

ガイウス・カエサルが死んだ。彼の後ローマにおいてクラウディウス・カエサルが十四年間統治した。彼の時代に全土に渡って過酷な飢饉が起こり、多くの人々がその大飢饉と疫病で死んだ。クラウディウス・カエサルの諸時代において、マタイは彼の福音[書]をヘブル[語]で、エルサレムで書いた。それからそれを福音記者ヨハネがギリシア[語]で解説した。 - Eutychius of Alexandria

また、コプト教会から伝わったとされるエチオピア教会の中世の伝承でも、ヨハネの活動とマタイの福音書を結び付けており、マタイの福音書執筆がキリストの昇天後8年目であり、ヨハネの黙示録をその翌年(昇天後9年目)であるとしている。

マタイの福音書の執筆は「昇天後8年目」とする伝承は多い。しかし「昇天後15年目」という伝承も一部存在する。もしかするとギリシア語への翻訳が為されたのが「昇天後15年目」だったのかもしれない。一般的にマルコによる福音書がマタイによる福音書より先立つと考えられているが、マタイの福音書翻訳の際にマルコの福音書が参考にされたと考えることもできる。

マタイの福音書執筆の翌年にヨハネの黙示録執筆、という伝承をもし信じた上で、他の伝承と組み合わせると、主の昇天後9年目(AD40前後)か主の昇天後16年目(AD40s後半)に黙示録が書かれたという候補が出てくる。


黙示録が書かれた時代を特定するヒントとして他に、「獣の数字」がある。

”ここに知恵が必要である。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるかを考えるがよい。数字は人間を指している。そして、数字は六百六十六である。” ヨハネの黙示録13:18

この数字の意味を、著者はおそらく把握していると思われるが、この数字の解釈として有力な候補の一つはネロ帝のヘブライ語表記(Neron Qsr)の文字を数字に変換すると666になるということから、彼を指すと解釈するものである。先ほどのエイレナイオスによる『異端反駁』5巻30章でも言及されているように、この「獣の数字」に関するかなり初期の異読として「616」という数字があり、これはネロ帝をヘブライ語からギリシア語で表記し直した時に数字が50減ることから、誰かが「これはネロを指すものである」という解釈をもとに本文を改変した可能性もある。ネロ帝は黙示録の獣のように「死後いつかまた再来する」という伝説がローマ帝国内でうわさされており、これは黙示録の解釈がもとになっている可能性もある。あくまで可能性に過ぎないが、ネロ・カエサルという人物が来たるべき獣かそのモデルになる人物であると黙示録記者が考えていたとすれば、それは少なくとも即位前のネロ帝がクラウディウス帝に養子に入ってカエサルという家族名を継いだ後のことであるということになる。ネロ帝の母である小アグリッピナはクラウディウス帝とAD49年の年始に結婚しており、ネロの名にカエサルが入るのはこの前後AD48/9のことと思われる。


確度は高くないが、ここまでの情報から、黙示録の執筆はAD48-54の間にあったと個人的に予想しており、また逆にここから、第二コリント書の執筆はAD62-68と予想される。


この見解を支持するものではないが、黙示録の執筆を紀元90年代以降とする見解と異なる見解を示す伝承は他にもある。以下に後日まとめる。

[リンク]



[独断と偏見による年表]

AD31前後 主の昇天

AD32頃 パウロの回心

AD35頃 パウロの回心後最初のエルサレム訪問

AD37 カリグラ帝即位、ヘロデ・アグリッパ即位

AD38-40 『マタイ福音書(ヘブライ語版)』執筆

AD41 クラウディウス帝即位

AD40-42 『マルコ福音書』執筆

AD44 ヘロデ・アグリッパ死去

AD45-47 『ルカ福音書』執筆・『マタイ福音書(ギリシア語版)』翻訳、クラウディウス帝期の飢饉(使徒言行録11章)

AD48-49 『ヨハネの黙示録』執筆、使徒会議

AD50-51 パウロ、『第一テサロニケ書簡』執筆

AD60-63 使徒言行録の記述終了

AD61-64 パウロ、『第二コリント書簡』執筆

AD62-64 『ヨハネの福音書』執筆

AD64 ローマ大火

AD66 ユダヤ・ローマ戦争開始

AD68 ネロ帝死去

AD70 エルサレム陥落、神殿崩壊

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