黙示録解釈…「女」の逃避

◼︎12章 … 「女」の逃避 

12章では「女」が「龍」(「サタン」の象徴として説明される)から逃れて荒れ野で千二百六十日間の間、匿われるということが語られている。

"また、大いなるしるしが天に現れた。ひとりの女が太陽を着て、足の下に月を踏み、その頭に十二の星の冠をかぶっていた。この女は子を宿しており、産みの苦しみと悩みとのために、泣き叫んでいた。また、もう一つのしるしが天に現れた。見よ、大きな、赤い龍がいた。それに七つの頭と十の角とがあり、その頭に七つの冠をかぶっていた。その尾は天の星の三分の一を掃き寄せ、それらを地に投げ落した。龍は子を産もうとしている女の前に立ち、生れたなら、その子を食い尽そうとかまえていた。女は男の子を産んだが、彼は鉄のつえをもってすべての国民を治めるべき者である。この子は、神のみもとに、その御座のところに、引き上げられた。女は荒野へ逃げて行った。そこには、彼女が千二百六十日のあいだ養われるように、神の用意された場所があった。" ヨハネの黙示録 12:1-7

この「女」は誰のことだろうか。

最も重要なこととして、この女は「鉄のつえで治める者」(つまりイエス)を生んだ者である。

つまり以下のどれかを象徴するだろう。 

①イエスの生母マリア

②イエスの血縁における家族

③イエスの同胞であるユダヤ人・ヘブライ人

④イエスの言葉を守る人たち(霊における家族)

①は最も直解した場合である。

②-④は全て別の言い方で回収することもできて、それは「エルサレム教会」である。

エルサレム教会は使徒言行録や教会の初期伝承で、主の家族がリーダーを務めていたことが伝わっている。またユダヤ人を中心とするキリスト者集団であったことから、全体としては③と④の両方の要素を持っていた。 

使徒言行録12章、15章、21章では、紀元40年代から50年代にかけてエルサレム教会をヤコブという人物が指導していたことが読み取れる。これは主イエスの親族であるとされる。

"この人は大工ではないか。マリヤのむすこで、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、ここにわたしたちと一緒にいるではないか」。こうして彼らはイエスにつまずいた。"
マルコによる福音書 6:3
"しかし、主の兄弟ヤコブ以外には、ほかのどの使徒にも会わなかった。"
ガラテヤ人への手紙 1:19 

エルサレム教会の初代のリーダーを主の兄弟ヤコブとし、次代もまたイエスの親族(従兄弟)であるクロパの子シメオンとする初期伝承が存在する。また、主の兄弟ユダの子孫も教会の指導的役割を担ったとされる。

https://note.com/makojosiah/n/nf2f9a02ee103

https://note.com/makojosiah/n/n8ddd675d758b

http://www.newadvent.org/fathers/250103.htm
(教会史3巻 11章、20章)

ただ、黙示録12章で登場する女性は「十二の星の冠」をかぶっており、これはイスラエル十二部族を想起させるため、この「女」はイエスの近親に限らず、ユダヤ人やヘブライ人のことを指すかもしれない。メシアを生んだ民族として、自然な解釈に思える。
この解釈は「大淫婦」たるエルサレムがキリストに従わないユダヤ人を指すとすれば、キリストに従うユダヤ人を「十二の星の冠を戴く女」として描いて対比されているのかもしれない。

さらなる拡張として、キリストに従う者一般を指す可能性もある。鉄のつえで治める者(キリスト)を生んだ、という立場は、キリストと家族であるという風にも言えることから上の解釈を言ったが、キリスト自身が家族についてこう述べている。 

"そして、自分をとりかこんで、すわっている人々を見まわして、言われた、「ごらんなさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。"
マルコによる福音書 3:34-35 

ただし「キリストに従う者」は黙示録中にたくさん登場するので、ここで「女」と象徴させることの意味が取りづらくなるという難点もある。

もしキリスト者一般をこの「女」ととるとすれば、女の戴く十二の星の冠はイエスの十二使徒のことであろう。

個人的な解釈としては、女の逃避をユダヤ人を中心とするエルサレムにあった教会が、エルサレムから離脱する出来事として解釈したい。これは教会史家たちによって伝えられている"ペラへの逃避"という出来事に比定できるように思う。  

これは4世紀の教会史家であるカイサリアのエウセビオスや、サラミスのエピファニオスらによって伝えられており、それによればエルサレムにあったユダヤ人を中心とする教会はエルサレム陥落の前に、「啓示によって」エルサレムを脱出し、ヨルダン川の東のペレア(Perea)地域、ペラ(Pella)に逃れたとされる。

”キリストがエルサレムが包囲されるからそこを発って離れるよう言っていたため、全ての弟子たちはペラ(Pella, Πελλα)に住むべくエルサレムを脱出した。この助言のために彼らはペレア(Perea, Περαια)に住んだ。” - サラミスのエピファニオス(AD4c)"Panarion" 29.7.7-8

ペレア(Perea)はヨルダン川東岸の広い地域を指し、ペラはその中でも北西に位置する町であり、「デカポリス」と呼ばれる地域に含まれる。

ではエルサレムのユダヤ人キリスト者たちには、どのような「啓示」が与えられたのだろうか。エピファニオスはイエスによる神殿崩壊予告の際の言明との関係を述べている。

"そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。市中にいる者は、そこから出て行くがよい。また、いなかにいる者は市内にはいってはいけない。"
ルカによる福音書 21:21

しかし「山へ逃げよ」と日本語で聞いただけでは、ある特定の場所を皆が想起するとは思えない。しかし実はここでの「山へ(εις τα ορη)」は定冠詞がついて複数形であるから、特定の場所を示している可能性もある。

旧約の律法では、故意でない殺人を犯してしまった人々は、被害者の親族に復讐されること(「血の復讐」)を逃れるための聖別された「逃れの町」が六つ定められている。

"血の復讐をする者は、のがれの町の境の外で、これに出会い、血の復讐をする者が、その人を殺した者を殺しても、彼には血を流した罪はない。彼は大祭司の死ぬまで、そののがれの町におるべきものだからである。大祭司の死んだ後は、人を殺した者は自分の所有の地にかえることができる。"
民数記 35:27-28
そこで、ナフタリの山地にあるガリラヤのケデシ、エフライムの山地にあるシケム、およびユダの山地にあるキリアテ・アルバすなわちヘブロンを、これがために選び分かち、またヨルダンの向こう側(LXX : εν τω ΠΕΡΑΝ του Ιορδανου)、エリコの東の方では、ルベンの部族のうちから、高原の荒野にあるベゼル、ガドの部族のうちから、ギレアデのラモテ、マナセの部族のうちから、バシャンのゴランを選び定めた。
ヨシュア記 20:7-8

ここで六つの「逃れの町」が挙げられており、(カッコ内は語源)

①ケデシ(「聖別」)②シケム(「肩」)③ヘブロン(「同盟」)

④ベゼル(「要塞」)⑤ラモテ(「山々」)⑥ゴラン(「捕囚」)

となっている。イエスはもしかすると「逃れの町ラモテ」のことをここで示唆したのかもしれない。あるいはイエスの言葉がユダヤ戦争当時のユダヤ人キリスト者たちによってそのように解釈された可能性もある。

しかもイエスによればエルサレムへの裁きは「血の報復」として行われる。

”こうして義人アベルの血から、聖所と祭壇との間であなたがたが殺したバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上に流された義人の血の報いが、ことごとくあなたがたに及ぶであろう。よく言っておく。これらのことの報いは、みな今の時代に及ぶであろう。ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。” - マタイによる福音書 23:35-38

この報復を逃れるために、血の復讐から逃れるべく定められた町に逃避するという考え方は理に適っているように思える。キリスト者であれ、キリストを殺害した責は負っているのである。しかしそれが自分たちの過ちであったと認め、キリストの父(神)による報復があることが予期できる者たちは、逃れの町に一定期間逃れるのである。

そして逃れの町に入った過失による殺人者たちが解放されるのは、大祭司が死去する年である。

”すなわち会衆はその人を殺した者を血の復讐をする者の手から救い出して、逃げて行ったのがれの町に返さなければならない。その者は聖なる油を注がれた大祭司の死ぬまで、そこにいなければならない。” 民数記35:25

紀元70年の神殿崩壊で祭司制自体が崩壊し、大祭司の地位自体が消えるため、この年が逃避したユダヤ人キリスト者たちの解放の年と考えることができる。実際、エウセビオスによればエルサレム陥落ののちに主の家族を含むユダヤ人キリスト者たちはエルサレム教会を再興している。

少し時代が下るが、アレクサンドリアのエウテュキウス(AD 10c)なども同様の記録を残している。

”アダムからティトゥス[帝]がエルサレムを破壊するまでは五千五百七十年である。ユダヤ人たちを逃れてヨルダンを渡りかの諸地域に定着していたキリスト者たちは、ティトゥスがかの都市を破壊し、ユダヤ人たちを殺したことを知ると、エルサレムに帰還した。”

では、祭司制の終了までの逃避先に選ばれたこの逃れの町ラモテとはどこにあるだろうか。残念ながらラモテという町の比定地は複数あり確定しないが、逃れの町ラモテは「ギレアドのラモテ」と呼ばれていることから、ギレアドと呼ばれる地域内にあることはわかる。ギレアドはヤボク川の南北に広がっている山地で、ペラを含むペレア地域と重なる地域である。

また、女の逃避期間として千二百六十日(三年半)という期間が示され、その間、女は荒野で養われる、とある。この期間は福音書中では預言者エリヤと結びつけられて出てくる数字である。

”エリヤの時代に、三年六か月にわたって天が閉じ、イスラエル全土に大ききんがあった” - ルカによる福音書 4:25

エリヤはこの大飢饉の期間に、ヨルダン川の東に行って養われる、というストーリーがあり、エルサレムのユダヤ人たちの逃避行にもこれが念頭に置かれていたかもしれない。

ギレアドの住民である、ティシュベ人エリヤはアハブに言った。「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。」主の言葉がエリヤに臨んだ。「ここを去り、東に向かい、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに身を隠せ。その川の水を飲むがよい。わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる。」” - 列王記上17章1-4節

この「女の逃避」が、イエスによるエルサレム神殿崩壊の予告をもとにしたユダヤ人キリスト者たちのエルサレム離脱事件であるとすると、それが起こった時期は福音書で言われるところの「エルサレムを軍隊が囲むとき」(ルカ17章)、「憎むべき破壊者が聖所に立つとき」(マタイ24章)であると思われる。これは黙示録13章の「獣の活動」と関係があると思われる。というわけで次の記事ではこれについて考えよう。

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