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現在地。2024年6月、大学3年目。

最近、私の考えていることを誰かに分かってもらいたい、という欲求がぼんやりとある。別に大層な考えがあるわけではないけれど、うっすらと誰とも共感し合えないことへの孤独感などを覚えることが多くて、だから書いてみることにした。

ここ数ヶ月、可能な限り真っ直ぐに、自分や自分を取り巻く世界を見たいと思って、本を読んだり映画を見たり丁寧に考えようと努めているけれど、そういうことをしているといつも苦しくなる。
そういう時は走りに行くと楽になるので、私の脳は考え事にはあまり向いていないような気がする。じめっとした6月の重たい空気と、心地悪く滲む汗が私は好き。言葉を介して考えるより身体で感じている方が、私は得意。
だけど、可能な限り正しく居たいと思ってしまうから、踏みとどまる。頑張る。
頑張るけれど、こうして書いた文章にも独善的な何かが滲み出ている。例えば昨日は慰霊の日だったけれど、この文章には沖縄のことは一言も書かれない。そういうことがたくさんある。反省する。

考え事

出来ることなら時系列順に、その考えに至った出来事なども併せて書きたいと思ったけど、今私によって語られる物語は今を起点に想起されるものでしか在り得なくて、全ての出来事に均質に意味を与えることは不可能だと気付いたので諦める。
代わりに、今の私の視点から、いくつかの出来事に意味を与えつつ書いてみる。

高校生

私に生じていた違和感の一時的な避難場所として、”資本主義嫌い”という言葉を使い始めたのは、大学受験に向けた努力に勤しんでいた高校生の時だったと思う。
当時は競争が本当に嫌いで(これは今も)、塾のクラス分けやテストの点数などで他者から評価されたり自分自身を評価したりすることが、嫌で仕方なかった。
この時に私が信じていた”物語”が南山の教えであり(「人間の尊厳のために」だとか「あなたが素晴らしいのはあなたがあなただから」だとか日々唱えていたお祈りの文言とか)西先生の言葉だった。そして、私の苦しさを産むこの競争は、受験戦争やその先の学歴主義や就活やそういった物事は資本主義に端を発するのだ、というのが私の中で最もしっくりくる説明だと発見して、以来私を見失いそうになる度に、資本主義というイデオロギーを信ずる世界をやんわりと否定することで自分を保つようにしていた。

大学1年目

大学1年目は、アイデンティティクライシスのような状態で、1年間目の前のことしか考えずに生きていたのだけれども、その中でも、”脱成長”の概念に出会ったり、全体的に世界というものが私がそれまで思っていたよりも恣意的だということに気付いたり、などしていた。

大学2年目

大学2年目は、今の私の考えの材料であり補強する素材である、生の体験が詰まった1年だった。
具体的なことは書かないけれど、象徴的な言葉に分解すると、

・家父長制が根強い司法制度
・他人をモノとして捉える価値観を内面化した人の存在
・法という概念の脆弱性
・ケアという概念、精神保健医療福祉の領域
・資本主義的価値観の苦しさ
・そうでない世界観の存在

などを経験ベースで考えていた。考えたというよりも実感として身体が感じていた。それぞれ繋がっていたり独立していたり、色々な形をしているけれど、その後の考えの材料となり、補強するものにもなる出来事を、生身の身体で体験していた。
私は、脳みそよりも身体が先行するタイプで、何かをまずは感じて、それが後から言葉による考えとして追いついてくることが、何かを考える時の基本的な形になっている。そういう意味でこの1年は苦しかったけれど大切な1年だった。

そして今

ガザで有り得ないことが起きている。ずっと起きていたのだけど私は最近になってようやく気付いた。苦しいという権利はないけれど、苦しい。
このガザで起きていることとそこに向けられた友達の眼を通して、私の体験ベースの諸々が思想として統合した。
全ては繋がっている。(※と唱えることは、危険な言説に繋がりかねないことは承知。) 資本主義、家父長制(体制の再生産)、西欧啓蒙主義、植民地主義、人種主義…。(※私は様々な問題を構造の問題に還元することが好みの思考回路みたいで、複雑な物事を過度に単純化しすぎることへの危険性は意識しておかないと危ういとも常々…)(手が届く範囲にも緊急性を要する物事は多々あるわけだし、個人的なことと構造的なこと双方への目配り、出来ていますか私)
そんなことを考えるようになった。

最近はこの世界を支える物語について考えている。どのような物語があり、そこにはどのような欠陥があるのか。苦しい現実はどのような物語のどのような欠陥に原因があるのか。
そして、もしかしたら私は新しい物語を創りたいのかもしれない、ということにも思い当たった。私が今いる世界は、周りの多くの人が良い・善いとすることは、欠陥もはらんだ物語に支えられている。そのことに目を瞑って、よいことを追いかけるのも一つの手だけれども、私はその物語によって周縁化された人の苦しさが苦しい。何よりその人は私自身でもある。

苦しいこと

成功したいと思わない

私は最近、この世界をゲーム盤と見立てたとして、この歪んだゲーム盤のプレイヤーとして勝ちを目指したいとは思わなくなっている。だけど、私のことを大切に思っていてくれている人は、私に成功して欲しいと願っている。良い会社に就職して、たくさんのお金を稼ぐ、など。そういう摩擦は少し苦しい。
周りにも、”成功したい人”が多いように感じるので、気を抜くと自分が失敗している(成功できない)とても劣った人間のような気分になってしまう。気合を入れれば大丈夫だけど。

自分がどこに進んでいるか不明

プレイヤーとして勝ちを目指さないのだとしたら、どうすればよいのか、どうしたいのか、などの確固たる道がわからない。ゲーム盤から降りる、新しいゲーム盤を作る、そもそもゲームをしない。どれにせよ、ロールモデルとすべきものは見当たらないし、自分で考えるほかない。ある程度その点は受け入れているけれど、誰かにあなたは何をしたいんだと問われると、説明できる言葉がなくて苦しくなる。
つまりは多分他者との関わりが問題?

共感し合える人がいない

誰かに分かってもらいたいと思うけれど、思う割に誰かの前に立つと口をつぐんでしまう。努力不足でもあるし、防衛本能でもある気がする。わかり合いたい。誰かに分かって欲しい。共に進む仲間が欲しい。圧倒的寂しさ?
ま、がんばりましょうね。

最近読んで、記憶にある本。小説は除く。

資本主義に出口はあるか

ロック・ルソーの対比軸で、時代や状況によって変わる右と左よりもロジカルに、イデオロギーの選択肢が生まれ、淘汰され、今の絶望的な(主観)に行き着くまでの流れが書かれていた。
特に私の気持ちは晴れないけれど、私はイデオロギーの流れについて穴だらけの認識しか持っていなかったので、勉強になった。

傷を愛せるか

トラウマとケアについて。愛読書。

とまる、はずす、きえる

マザリング 現代の母なる場所

「母」なるものに課せられた重荷。(言葉を選ばないととても差別的になってしまう話題だが)女性であるというということは時に、言葉の外に追いやられることである。そして、資本主義のような世界観では扱いきれない、扱ってはいけない出来事が、女性の身には起こる。
私の中で初めて、フェミニズム的問題提起が詩的言語として腹落ちした一冊だった。

物語の哲学

これはまだ読みきれていないけれど、読みながら、この20年で構築されていた、浅いが浅さ故に強固で歪んだ歴史観を、解体している。実在論/再構築論/構築論/脱構築論、表象論、哲学の潮流など、私の中で分かっていない部分が多すぎて、ちゃんと読めるまでは3年くらいかかるのではないかと思っている。

愛と性と存在の話

一年前に読んだ箱の中の天皇を思い出し、最近の私が抱いていた違和感などを解く言葉が赤坂真理さんにはあるのではないかと思い、読んだ。しっくりくる言葉が多かった。異性愛者間の分断言語とか、ある種被植民地である戦後日本の話とか、その女性性とか。
主題でもある愛と性に関して。私は中高を女子校で育ったこともあってか、男性・女性という差分については比較的敏感だと思っている。例えば男の子と仲良くなることに関しては異性愛規範を強く内面化している私にとっては女の子と仲良くなることとは違う意味を持っているし(私の恋愛対象が異性であるか、私の性自認が女であるか、などはまだ自覚的ではないのに!)それが私にとって望ましい姿勢で
あるかについては未だ結論を持てていない。そういうわけで、赤坂さんの性と愛に関する葛藤や言葉には、結論付けられていないことをも肯定されたような感覚になり安心した。

東京プリズン

最近、欧米主義などはもう崩れるだろう、と勝手に考えている。崩れて欲しいと祈っている。第二次世界大戦の戦勝国によって作られた歴史と物語は。そして、日本が修正してきた歴史についても、同じことを思う。そういうことを読みたくて、1年前に挫折した1冊を再読。
小説にしかできないことが、ここでは存分に行われていた。第二次世界大戦・原爆投下・天皇という神話・植民地・ベトナム・ベトナム戦争。
小説というのは、私が何かを分かるための土を耕すものなのだろうと思った。
読みながら、私はきっとずっと苦しいのだろうと思った。

21 Lessons

高校3年生ぶりに再読。読みながら、感じている欠陥や問題を、言葉に落とし込む作業をしている。

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