見出し画像

積み重なる深い痛みに、声を。

「対話」を私は望んでいるのか?

対話や紛争解決といったテーマに取り組む一人として、ウクライナで起きていることに対して、自分には何ができるだろうというもどかしさを抱えつつ、「ともすれば埋没させてしまうかもしれない、本当の声はなんなのだろう」と耳を澄まそうとしています。

「対話の場を持とう」。そう声をあげたい自分。声を聴きあうことを通じて、さまざまな視点に触れ、嘆きをともにすることで、癒され、あるいは力につながることがきっとあることでしょう。

そしてその時に、私が本当に大切にしたいこと(絶対に忘れないでいたいこと)はなんなのだろうと、立ち止まりたいと願うのです。

少しきつい言い方をすると、「対話の生半可な気持ちよさ」には(現実から目を逸らすのに最適な)ある種の麻薬効果があると感じているから。それは、例えばSDGsといったテーマを活用しつつ広がる対話の流行の中にも感じる何かの違和感でもあります。

あの人のホールドする場には何があるのだろう?

私は今年の1-2月に、The 2022 Processwork
Winter Intensive(PWI:プロセスワーク冬季集中プログラム2022)
というオンラインのプログラムを受講していました。葛藤・紛争解決に応用されるプロセスワークという手法について学びを深めたかったからです。

プログラムには世界20カ国以上の人が参加し、人種やジェンダー、差別や格差などさまざまなテーマが立ち上がりました。そこでは時に激しい対立も起こりました。なかにはとても深い痛みを伴うものもありました。

そんな中、私がとても心を惹かれた講師がいました。エロルというオーストラリア在住のプロセスワーカーです。的確な観察にもとづく「見立て」、さまざまな言葉や存在への認知から導かれる「エッセンスの抽出」、出現しようとしているものを捉え、それをグループの気づきとして共有すること……。エロルのファシリテーションによって持たさられる場やプロセスへの信頼、ともに在るという感覚の高まりに、とても大きな安心を感じました。「どの声にも意味がある」。そのことが体験を通じて、共通の認識として育まれる感覚です。

ワールドワークから探求する深層民主主義(ディープ・デモクラシー)

PWI受講生有志の呼びかけによって、ウクライナ情勢に関して、エロルのファシリテーションによるワールドワークが開催されることになりました。

この事態について言葉を交わしあいたい。何が起きているのかを複層的にみてゆきたい。ということはもちろんながら、この複雑な問題に対して −しかも、世界からさまざまな体験や見方を持った人たちが集まるなか−どのように場をホールドしていくのだろう。それはとても興味深いことでした。

私は対話の一参加者として、と同時に、ファシリテーターの在り方から学ぼうとする一人の学習者として、その場に身をおきました。

ワールドワークには、どんなトピックを深めていくのか、参加者から声を募って決めていく「ソーティング」というプロセスがあります。

ある人にとってウクライナは距離的にも歴史的にもとても近い存在でした。またある人は(そこから目を背けることができる)距離感にいるある種の特権を声にします。ある人はジェンダーの問題を声にし、ある人は隣人との間の対立にその類似性を見出すと声にしました。歴史的体験をもとに感じ取るもの、あるいは情報やメディア、トラウマといったことも話題にのぼりました。このソーティングのプロセスからも、この問題の複雑さ、そして私たちの心の捉える風景の多様性に、何度も心が揺さぶられ、あるいは安心を感じます。安心を感じるというのは(こう感じているのは、自分だけではないのだ)ということの実感から生じるものでもあります。そして、それが受けとめられ、認められたということから。

3時間のプロセスの中で起きたことについて詳しく記すことはできませんが、彼がセッションの中で指摘したことがとても心にとまったので、ここに記します。それはAnger(怒り)とRage(憤怒)の違いについてです。

私たちが「怒っている」という時、そこには憤怒が含まれていることがある。憤怒とは、長いこと蓄積された怒り。抑圧され、長いこと聞かれることがなかった声の存在。それは、無力感の中に組み込まれた、組織化された抑圧でもある。システム的に抑圧された憤怒が声をあげることを歓迎しよう。それは、必要なことなのだ−–−。

こういった抑圧された声・感情に耳を傾けるたびに、セッションの間、何度か意識的に沈黙する時間が提案されました。「30秒間、沈黙をとって、それぞれの中でおきていることに意識をむけてみよう…」。それは時に数分間にも及びました。

沈黙の中で、私は自分の中にある深い怒りに気づきました。それを声にすると、エロルがさらにもう一歩吐き出してみたら、と提案してくれました。ひょっとして文化的にもそれは抵抗があることかもしれないけれど、とケアを添えて。そこで私は、では日本語で話します、と前置きして、湧いてきたものを声にしました。

「対話とかコミュニケーションとかなんとかいって、なんなの?表明的なことを言ってるだけじゃないの?知的な理解を振りかざしてそんなに楽しい?そんなんで仕事した気にならないでよ。ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな!!!」

日本人以外の人には私の発言の内容はわからなかったはずですが、そのエネルギーから伝わってくるものがあったと、声をあげてくれる人がいました。

声にしてみて、びっくりしたのは私です。「ふざけるな!」。それは、表現され・受けとめられる必要のあるものでした。さもなければ、私は「ふざけるな!」の声を抑圧した状態を、自分の中でずっと抱えることになったことでしょう。その抑圧された声はある時「私はずっと我慢してきたのに!」という反乱として爆発するかもしれないものです。

本当に大切にしたかったもの

怒り・憤怒といった、生命の奥深く・感情からわきおこる声を表現することは大事です。それが大事に受け止められる場を用意することがとても大切であることを、とても強く感じます。その奥には、本当に大切にしたいことへの憧れ・願いが隠されているのです。

と同時に、そういった表明が合意的現実社会にもたらすインパクトにも気づいていることが大切であると、エロルは指摘します。さまざまな視点からものごと捉え、ケアを持って見守る姿勢。その際、自分自身のいきいきさ・いのちの声も犠牲にせずにともにあるということ。エロルのファシリテーターとしての在り方から、私は常にインスピレーションを受けとり続けていました(体験そのものにどっぷりつかるよりも、学びたい気持ちが先に立つ。そんな自分が存在します)。

この体験を経て、私の中でさらに明確になったものがありました。「遠慮し、妥協して、本当に声にしたいことを誤魔化してしまうのはやめよう。何故なら、誤魔化しによって小さな声を殺し続けてきたことが、戦争に向かううねりと、そこへのあきらめ、他人事化を、支え続けてきたのだから」。

ながらく社会生活を営む中で、「ある種の調和」を取り持つスキルは随分と身についてきました。そしてその「ある種の調和」の維持のために、なかったものにされる不調和があることにも気づいています。誰かを責めるのでもなく、奇妙な正義に走るのでもなく、どのようにして、存在のありのままを受けとめてゆけるだろうか。なんらかの行為や技術にただ走るのではなく、存在そのものをして、もたらすことのできる変容とは何なのだろう。そんなことを考えています。

人生、未体験ゾーンがまだまだたっぷりあるなあ。なんて広大な大地なんだ。

さらに学びを深めるめに、4月からエロルのオンライン講座を受講する予定です。英語ですが、ご関心がある方は、是非。

Facilitating Dynamics of Systemic Oppression(システム的抑圧のダイナミクスをファシリテートする)April-May 2022.