【立秋】蒙霧升降 (ふかききりまとう)
ワクチンを打ってきた。
それは自分でも意外なことだった。当初私は「しばらく様子をみてからでないと怖い」という考えを持ち、少なくとも数ヶ月は見合わせようと思っていた。
しかし、知り合いのお医者さんが発信する日々の記録を目にするにつれ、そして医療の現場に近いところでお仕事をされる方から、行き先を見つけるのに何時間も立ち往生する救急車の話を聞くにつれ、考えが変わってきた。直接の知り合いにコロナに感染した人たちも増えてきた。家族を亡くされた方もいる。
ワクチンの接種については、さまざまな意見がある。それについての決断はともかくとして、自分が感染源かもしれないという意識は以前にもまして強く持っていようと思っている。
(何が正しいあるべく判断か)というよりも(何を大事にしたいか)の選択として。
「いのちとの距離感に意識的でありたい」というのが私の選択だ。いのちとの距離感とは、死をも内包する生命のいとなみについて、自分がどのように意識を向けていたいかということである。
いま、もっとも問われるべきは、この点なのではないだろうか。
自分の大切に思う人のなかに、都心への通勤を余儀なくされた暮らしを続けている人がいる。「都心って思ったより人がいるんだね」というと「そうだよ、そういう中で暮らしてるんだもの、いまさら注意しろとかマスクをっていわれても、無理でしょと思ってしまう」とその人はいう。マスクもワクチンもどれくらい意味があるのだろう・・・そう言うその人の発言をきくと、私は心配になってしまう。お願いだから気をつけて。できる限り気をつけて暮らして。安全でいてほしいの・・・。
相手を怒らせることなく、どうしたらそれが伝わるだろう。そんな気持ちがちらつくのだ。わかりあいたい。わかりあえたなら。
ほんの二日ほど前のことである。ふと、ある考えがこころに浮かんだ。
「この人が何を大切にしているのか、その人が好きなものが何か。日常の何気ないやりとりのなかで、それに耳を傾ける時間を増やそう」
どんなにか気をつけても感染するリスクはゼロにはならない。それはその人だけではなく、私だって同じだ。
だとしたら、その人との記憶を(ずっと心配して過ごした時間)で埋めるかわりに(その人の大切なもの・大好きなものに耳を傾ける時間)としてこころに留めたい。そう思ったのだ。
それは私も同じ。何を大切にしている人なのか、それをこの世に残しておきたい。
それは情緒的なことであると同時に、とても理にかなったことだと思う。さもなければ私たちは、お互いが何を大切にして、どんなことが好きなのかということに、どれほどつながっているのだろうか。こころに触れる体験を、どれだけ重ねていけるのだろうか。
そのことを意識してのち、会話における選択が変わった。コロナの時代を生きるということ。それは、その人との今この瞬間が最後かもしれないということを忘れないでいることでもある。そこから自ずと浮かび上がる選択がある。生命からの選択。そこに軸をおくことで、前よりしっかり、立っていられるようになる気がした。
私がここに記しているこれも、もしかしたら最期の文章になるかもしれない。
それはどの時代にも言えることではある。けれどもそれを、より一層意識におくことで、せめていのちとの距離感を縮めていこうではないか。そう、強く思うのだ。
夏の残火がゆらゆら揺れる。
それを眺めている、わたし。
わたし - すなはち、いのちを生きるいのち。