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職業的美意識と「問い」の更新

NVC (Nonviolent Communication)を学び、その後コーチングを学んだ私は、いつしか人のこころの内面深くに寄り添うことを仕事とするようになった。

こころに寄り添う仕事。というのには、しっくりこないところもある。寄り添うということは仕事なのか。友だちが悩んでいるとき、それに寄り添うことは仕事ではない。それは自然のこころの働きで、この関係性のために私は自分の振る舞いを自らの意思で決めている。友として何ができるか。その軸が揺るぐことはない。そしてそれでも、関係性の中に何かの依存のようなものを感じたら、そのことについても友だちとしてちゃんとまっすぐ話しあうだろう。どのみちこころの曇りは、隠すことなどできないのだから。

さて。私の中で、特にコーチとして活動することを決めた時に、こころに誓ったことがある。それは「その人の中にある可能性に本心から偽りなく向きあう姿勢を持つこと」。それができる自分であろうとする試みを諦めないことだ。

というのは、シンプルにここからきている。「もしも相手が私の可能性をみてくれているのは、私がクライアントでお金を払っているから、という理由だとしたら、ものすごく嫌だな」。

一方、コーチの立場にたつと、クライアントにはさまざまな人がいるし、ひょっとしたら、自分が苦手と感じるタイプの人がクライアントとなることもあるかもしれない。そういう時、その相手に、心底その人の可能性を信じて寄り添うことができるだろうか。コーチとクライアントという関係性があるから、なんとか取り繕うとする?まさか。そんな邪な気持ちは、きっと言動から滲み出てくるだろう。人の感受性は鋭い。それをあまくみてはならない。

もしも相手に対するこころのレンズが曇ったなら、それは私が自分の中にある「問い」を更新する時だ。そう考えた時、揺るぎない軸がすっと立ち上がった。

「この人に困ったと感じている時、私は何をみているのだろうか」「私のなかの誰が、この人をみつめているのだろう」。たとえば、そんな問いかもしれない。

私のこころの扉を開く鍵。それは、問いの力にあるのだ。

もちろん今でも、人に対して苦手意識や残念な気持ちを抱くことはある。そういう自分も、大いに認める。その上で「私はそこにはとどまっていないよ」ということを、思い出すことを忘れない。そこでとどまる私であったら、私はコーチングを仕事にすることはできないだろう。

「問い」を問う。そして、私が私自身の可能性をあきらめないこと。私はそこにコミットしている。そこに私のコーチとして、あるいはセラピストとしての誇りと職業的美意識がある。