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【立秋】 涼風至 (すずかぜいたる)

「役に立つ」という言葉がある。誰かの役に立つこと。貢献すること。

人と人がこころを通わせるとはどういうことだろうか、というのを考えていた。「こんな風にすると通じあうことができますよ」というような「期待をともなう手法」を卓越したところに、突如として出現する野原のような空間。穏やかであたりまえにつながりあえる裸足で歩く地平。お互いのなかから相手に向かって関心の触手が自然と伸びてゆくような、あどけなく確かな、出会うことへの憧れ。

とりたて何もしなくてもーーー「なにかしよう」というのを手放したからこそ出現する「出会い」のフィールドがある。そこは「目指す」のではないところ。なんだかぼんやり遠くを眺めているうちに、いつのまにか視界に浮上するような、その輪郭に「はじめて出会いあっていくような」感覚。

(ひょっとしたらそこを見つけることができるかもしれない)という憧れだけを持って、今日はクラスに臨んだ。ひとりでは難しい。でも、一緒にいるのだもの。お互いの無重力を重ね合わせたら、何かがみえてくるかもしれない。「ファシリテーター」という役割がもどかしかった。それで、それをできるだけ(ここに集うひとたち)のものとして、溶け込ませてゆけたらと考えた。お互いの心臓の音が感じられるくらいに、フラットになれたらと願う気持ちと。

そんな中で、私は「役に立ちたい」とする意味を、私の中で溶かし、委ねることにした。お互いがただ在るとき、そこになにかしらの(通いあう回路)が生まれるのではないか。それはもう(誰か)の貢献というのを超えて(いつのまにか私たちの中に)出現する何かとなるのではなかろうか。

そんな風に過ごした、午前クラスの「統合の時間」。記憶に残るのは、突如として出現した子ども時代の夏休みの情景の中で、私たちは出会っていたということ。少しの遊び心を持ち寄り、お互いを感じつつも、自分をクッションのようなもので包みながらその繊細さを楽しみあじわうような、そんな時間の余韻が残る。

台風の影響で1日ずっと風が強かった。気圧のせいか頭がぼんやりとして、ずっと眠たい。

できるだけ、できるだけ。(何かを学ぶ)という筋書きありの通りから、(何かを見つけあう)という道なき道の世界の中で、ともに出会い会う互いでありたい。

そんな願いとともにあるクラスの時間。私、すなわち、いのち。