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『スイミー』は、一致団結の話じゃない〜当たり前を疑って気づくメッセージ

『スイミー』を読んだことがある人は多いのではなかろうか。
国語の教科書に40年以上も載っているベストセラー作品だ。

主人公スイミーが、
兄弟をマグロに食べられる不運に見舞われながらも、
ひとり大海原を生き抜いて、
新たに出会った仲間と力を合わせて困難を克服する物語だ。

一致団結の素晴らしさを伝える物語だと、
ずっと信じて疑わなかった。

けれど、あるとき、
気づいてしまった。

「みんなで力を合わせることはすばらしい」は、
刷り込まれたメッセージではないのか、と。

原作Swimmyと日本語翻訳『スイミー』

この物語の原作Swimmyは1963年、
レオレオニによってアメリカで出版されている。

日本語翻訳の『スイミー』は
1969 年に、谷川俊太郎によって訳されて出版された。

国語の教科書に採択されたのは、
1977年が最初で、以後ずっと小学校2年生で
読まれてきている。(一部の教科書では1年生)

わたしも、国語の授業で読んだ。
たぶんたくさん音読もして、
ペープサートでお芝居をした記憶もある。

みんなでひとつずつ、紙で作った魚をもって
大きな魚になって、大きな魚を追い出したのだ。

とても楽しい授業だった記憶がある。

ストーリーの魅力

そして『スイミー』は
ストーリーがやはり、
かなり魅力的だ。

一度読んだら最後、
読者の心を掴んで離さない。

兄弟たちはみんな赤い魚だったが、
スイミーは黒くて小さな魚。
でも泳ぐのは誰よりも速い。

ある日、
みんなと仲良く暮らしていたスイミーたちのもとに、
でっかいマグロが「ミサイルみたいに」飛んできて
兄弟を1人残らず、食べてしまう。

失意の底に沈んだスイミーは、
海の中をひとりさまよう。

しかし、いろいろな海の生き物たちに出会う中で、
こころが癒され、やがて元気を取り戻していく。

そして、物語は、スイミーが失くした兄弟たちと
そっくりの魚に出会うところから展開する。

大きな魚に食べられることに怯えて
洞窟の外にでてこない魚たちに

スイミーが「ぼくが目になろう」と声をかけ、
魚たちをリードして、みんなで大きな魚のふりをして、
大きな魚を追い払うのだ。

このページの絵は、
本当に壮大で、心を打つ。

谷川俊太郎の訳の魅力

さらに『スイミー』は、
とにかく谷川俊太郎の言葉選びが秀逸すぎる。

原作も素晴らしいのだが、
さらに魅力が増していることは否めない。

にじいろの ゼリーのような クラゲ‥

すいちゅうブルドーザーみたいな いせえび‥

うなぎ。 かおを みる ころには, しっぽを わすれてるほど ながい‥

好学社「スイミー」引用 http://www.kogakusha.com/book/187/

何といっても、この登場人物たちの描写が
子どもたちの心を鷲掴みにするのだ。

みんなで力を合わせることの意義・・・?


『スイミー』の最大の見せ場は、
みんなで大きな魚のふりをして大きな魚を追い払う場面だ。

と、ずっと、疑うことなく
当たり前にそう思ってきた。
みんなで力を合わせれば、なんだってできる的な…。

しかし、大人になった今、
ふと、考えた。

その当たり前、正しいの…?

大人はみんな、
「みんなで力を合わせること」で
すべてが解決できるわけではないことを
知っている。

みんなで力を合わせても、
どうにもならないこともあるし、
みんなで力を合わせたことで、
とんでもないよからぬことが起きることもある。

みんなで力を合わせなくても、
できることはたくさんあるし、
みんなで同じ方向を向いていないことが、
生み出す良さもたくさんあるのだ。


しかしなぜ、わたしは盲目的に、
「みんなで力を合わせること」を美徳としてきたのか。

こどものころ、
「みんなで力を合わせること」はすばらしい、
と刷り込まれたのではないのか。

そもそも、
物語『スイミー』が伝えたいメッセージとは
本当に「みんなで力を合わせること」なのだろうか。

国語の授業は、バイアスをかけていないのか?

わたしは、
廊下に『スイミー』の大きなオブジェが
並んでいるのをみたことが何度もある。

クラスの一人ひとりが赤い魚を作成し、
みんなで合わせて大きな魚を作っているのだろう、
と推察する。

作品としては素敵だし、確かに映える。

あのオブジェはきっと、
「みんなで力を合わせること」を
視覚に訴えるように表現している。

国語の授業で『スイミー』は、
「みんなで力を合わせること」や
「協調性の素晴らしさ」を
学ばせる作品として、存在しているように
わたしには感じる。

スイミーが経験する、孤独と再生。

わたしの中に印象深く残る
『スイミー』からのメッセージは、
「孤独と再生」だ。

兄弟を亡くし、1人ぼっちになり、
さみしくて、怖くて、
暗い海の底を彷徨う。

この場面の、谷川訳の文章が、
そこのスイミーの孤独をさらに深めてくれる。

こわかった, さびしかった,   
とても かなしかった。

好学社「スイミー」引用 http://www.kogakusha.com/book/187/

しかしそこから、
スイミーは、個性的な海の生き物に出会い、
少しずつ、自分の生きる力を取り戻していく。

ここだ。ここがわたしがいちばん、
好きな場面だ。

人生において、
誰しもが何度となくぶち当たる壁。

恐怖、耐えがたい孤独。
明日が見えない、頑張る気力も湧かない。

そんな時に目の前にあるものに
目を止めてみる。

よくみてごらん。
よく聞いてごらん。

目を閉じて、感じてごらん。

全て失って、何もなくなった自分にも、
語りかけてくる美しい生き物がいる。

この孤独を乗り越えたからこそ、
スイミーはその後、リーダーとなり、
みんなで大きな魚のふりをして、
大きな魚を追い払うことができたのだ。

孤独と再生。
わたしにとっての
『スイミー』の主題はここなんだ。

もし、わたしが表紙を決めてよいのなら、
迷いなく、この場面を選ぶなあ。


原作Swimmyと日本語翻訳『スイミー』の表紙

実は、原作のSwimmyと
日本語翻訳の『スイミー』の表紙は異なる。

表の表紙は同じなのだが、中表紙が違うのだ。

原作Swimmyの中表紙
Leo Lionni ( 1963 ) Swimmy.  ALFRED KNOPF.    より


日本語翻訳の中表紙
レオ=レオニ 作 谷川俊太郎 訳 (1969) 『スイミー』好学社 より


日本語翻訳版は、どんな意図で
原作とは異なるこの場面を
中表紙に選んだんだろう?

わたしがこどものときに受け取ったように、
日本の子どもたちに向けて、
「みんなで力を合わせる」ことの大切さを
説いているのだろうか。


訳されたのは、谷川俊太郎さん。

機会があれば、
その意図をお伺いしたいのだけれど、
今のところ、
そんな機会がありません。


あなたの
『スイミー』で表紙にしたい場面はどこですか?

もし、あなたなら、
スイミーで表紙にしたい場面はどこですか?

試しに
話し合ってみたことがあるのです。

そうしたら、
すごく意見が割れて驚いた。

スイミーの自分だけ黒、ということから、
他のひとと違う自分の個性を際立たせるページを選ぶひと。

わたしのように、孤独と再生のメッセージを受け取って、
スイミーがひとりで泳ぐくらい海の場面を選ぶひと。

華やかな色合いが素敵な
いそぎんちゃくの場面を選ぶひと。

でも一番多いのは、
みんなで大きな魚のふりをする、
日本語翻訳の中表紙にもなった場面を選ぶひと。

ここに国語教育のバイアスが
影響しているのではと感じてしまう。


それぞれが選ぶ表紙はきっと、
それぞれの大切にしている価値観が、
選ばせた場面なんだろう、と思う。

『スイミー』は、
主人公スイミーの生き様から、
読み手が人生において生きるヒントを得られる、
秀作だな、と今さらながら感心した。

読み手の解釈に任せるべき

文学の解釈って、読み手の自由であるべき
という主張を、わたしは尊重したい。

なので、『スイミー』から受け取るメッセージは、
人それぞれ、でよいと思う。

今のわたしには「孤独と再生」のメッセージが
強く届いている。

でもあるときまではずっと、
「みんなで力を合わせること」が
強いメッセージとして残っていた。

もし、小学校の国語の授業が、
『スイミー』のメッセージは「協調性の大切さ」と
答えを決めてしまっているとしたら、

それは文学を伝えるという意味においては、
破綻しているのではないだろうか。

そうではなく、
それぞれの読み取りや解釈を尊重して伝え合う、

国語の時間は、
そんな場であればいいなと願っている。




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