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何が自分なんだろう?

ときどき思うのだけど、自分というのは何を指すのだろうと思う。
もともと持っているものから、過ごしていくうちにいろいろ経験したり何かを得たりして、そうやってつくられてきたもの全部が自分なのだと思うけど。

でも意図的に自分を変えたりつくったりしてる場合って、どこまでがつくりものでどこがベースの自分なのかわからない気がする。

たとえば、私は幼稚園の頃まで極端な人見知りで同じ幼稚園の同じクラスの子や先生ともほとんどまともに話せなかった。
ひとりで内にこもるタイプで絵本とかおりがみとかもくもくとやるみたいな。
でも転園したときとか小学校にあがるときとかのタイミングで、これだとやばいやってけないって思って人と話せるようにがんばってみた。

今では多分ある程度普通に人と話せていると思うけど、本質的にコミュニケーション苦手なところは残っていると思う。
仕事とかではなんとかなってる(と思ってる)けど、プライベートになるとすごく苦手。ちょうどよい距離感とかつかむのも苦手。

そういう状態だと、コミュニケーション苦手なのと、ほとんどの時間で(仕事なり外面使うところで)コミュニケーション問題ないのと、どっちがほんとの自分?
どっちもって言ったらそうかもしれないけど。

距離感つかむの苦手なのは、がんばって話せるようにしてみたときからで。
どう話していいかわからないので、こんなイメージでこんな風に話せばいいはず、って、キャラつくって対応していた。学級委員キャラとか、男まさりキャラとか。その場にいるのになんかなじみやすいような、役割わかりやすい感じの。
なので、中学にあがるとか、高校に行くとか、顔ぶれ変わって人も増えてどんな雰囲気の場かわからないところだと、最初のキャラ設定がわからずとまどう。

いろんなキャラ設定でいて、意図的につくってるから元に戻る部分と、そのキャラでの態度とかがしみついてるような部分とある。
それはどこが自分という範囲?

特に意識しなくても、自分の役割が変わったり場や相手が変わるとちょっとずつ自分のキャラも変わってしまうとも思う。
誰にしもあることのような気もするけど。

たとえば会社にいるとき、おおまかには会社用のキャラでいると思うのだけど、関わるプロジェクトごとにちょっとずつ話し方とか態度とか違っていると思う。
どんな役割を期待されているかで変わるのだと思うけど、ちょっときつめだったり、ちょっとゆるかったり、のんびりだったり。

意識せずに変わってるのだから、それは全部が自分の範囲なのだろうか?
でもその場が終わったら戻るのだからつくりものかもしれない。

もとからあるところとそういう風に変わるところも含めて、全部自分だといえばそうかもしれないけど。
つくってるときはやっぱり自分ではない気もするし、何が自分なのかわからなくなるなぁと思う。

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