信仰と絶望のはざま
すっかりご無沙汰しています、Makiです。
今回は、自身の信仰について書きなぐりますが、ちょっとね、ネガティブです。
キリスト教をあまり知らない方には、何がないやらかもしれませんので、あらかじめ謝っておきます。すみません。
このところ、信仰の状態がよろしくない。
このところ、というのはこの数年、具体的にいうと6年くらいだろうか。
6年という時間は長い。
この6年の間に洗礼を受けた友人が何人かいるし、最近知り合った人でも「3年前に受洗したんです」みたいな人も何人もいる。
彼らが新しい人生を歩み出してからよりも長いこと、わたしはずっと調子がよろしく
ない。
きっかけは、本当にふとしたことだった。
そもそも根底にある問題は昔から抱えているもので、それを自覚したのが8年ほど前。
自覚する前から1-2年に1度くらいの割で、ぶわっと湧き上がっては沈静化する。
そういうことを繰り返している。
だから、今回もそのはずだったのだ。
それがずっと燻り続けている。
もう6年だ。
キリスト教信仰というものは、「ご利益」ではないので、信じているからといって人生バラ色ではない。
わかっている。
実感としてわかっている。
「すべてのこと、あい計らいて益となる」
わかっている。
人の目から見て苦しいこと、不幸なこと、そういったことも、神様の計画の中でよいことのために用いられることがある。
知っている。
わたしもそうやって、人の死を通して神様を知りクリスチャンになったのだ。
知っている。
「イエス様はどんなときも、共にいてくださる」
「すべてに神様のタイミングがあるから、今は苦しくてもいつか必ず助けてくださる」
「神様の視点で見れば、大変な状況にも意味がある」
「どんなことにも感謝しなさい、苦難をも耐え忍びなさい」
わかってる。
しってる。
実体験としてある。
自分もそうやって、人を慰めてきた。
知ってる。
知ってる。
今までも、そうやって立ち直ってきた。
知っている。
分かってる。
今回は、それでは立ち上がれていないだけ。
言葉にするなら、「穏やかな絶望」だ。
底の見えない、岸の見えない、穏やかな海に、ずっとたゆたっている。
ずっと抱えている問題は、表面化する部分が毎回違っていたので、昔はそのたびに「対処できていた」。
それが根本が同じだと気づいてからも、表面化してはまた落ち着いて、ということが続いていた。
「神様、わたしの罪深さを赦してください」
「苦しいのです、助けてください」
「すべては神様のタイミングで行われますように」
そうやって祈って、しのいできた。
それ自体が間違っていたとか、そういう風には思わない。
ただ、そうやって癒されたつもりでいたものは、根本が何も解決しないまま蓄積されていたのだ。
それが6年ほど前、些細なことで決壊した。
今までと同じやり方では、ふたが閉まらなくなっている。
今までと同じようには、祈れなくなっている。
「この試練を通して、神様が何をしてくださるのかな」
「今は大変だけど、これも神様の計画だから」
そんな風にポジティブには、受け取れなくなている。
「できることなら、この苦しみをとりのけてください」
と祈ることはできる。
でも、その祈りが聞かれるとはかぎらない。
エレミヤの祈りは、一生聞かれなかった。
彼は聖書の中で十分な記録をされ、後世の役に立っている。
わたしは、そんな風に役に立たなくてもいい。
今すぐ苦しみから解放されたい。
でもそんなわがままな祈りは、たぶんおそらく聞かれないのだ。
わたしがこの経験を、信仰によって乗り越えようとするまでは。
感謝をもって受け入れるように、なるまでは。
そしてそんな気持ちには、今のところ全くなれそうにもない。
祈ることに、疲れてしまっている。
期待して絶望することを、恐れている。
もう一度立ち上がるには、どうすればいいのだろう。
岸はまだ見えない。
Makiのコーヒー代かプロテイン代になります。 差し入れありがとうございます😊