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淋しさの温度

淋しさには温度がある。たくさんの人に囲まれているときに淋しさを覚える人もいれば、特定の人がいないことに淋しさを覚える人もいる。ふたりでいるのに感じる淋しさもあれば、離れているからこその淋しさもある。涙がとめどなくこぼれる淋しさもあれば、心が乾ききって涙の一粒さえも出ない淋しさもある。写真に写る淋しさもあれば、写らない淋しさもある。

この温度というのは実に微妙で、わずかな温度差でもまったく言葉が通じなくなってしまう。そして今日もどこかで分かり合えない者どうしの間に「誰だって淋しいよ」「それは贅沢な悩みじゃないかな」といったことばが、宙に浮いては消えるのだ。

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彼とは同じ淋しさの温度を持つ者同士だった。ややこしい発想をしがちなふたりである。当然ながら淋しさも実にひねくれたもので、それゆえに周囲のアドバイスで余計淋しくなって、お互いに淋しさをこじらせている。

ときどき「淋しいね」と言い合うことがあった。私たちのあいだでは、淋しさに関するどんな言葉もするすると心に染み込んでいく。なぜなら、同じ温度だから。ふたりがふたりして、理解してもらえることにに飢えていた。理解してくれる人を、ずっと求め続けてきたのだ。この淋しさをわかってくれる人がいたなら、どれほど淋しくなくなるだろうと。

そして話しているうちに、気づいてもしまうのだ。マイナスとマイナスをかければプラスになるけれど、淋しさと淋しさは、かけてももっと淋しくなるということに。無理解の淋しさとはまた違う、理解し合ってもなお淋しいという世界があることに。生きれば生きるほど、嬉しいことの数は増えていく。そして淋しさの数も、増えていくのだ。


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