見出し画像

おかげさまで

2人の子供も、私も病気で入院した事がある。
近くに頼れる人がいない母子家庭は、家族の入院も色々と大変だった。

二男は小学生の頃毎冬、溶連菌にかかっていた。
いつものように、風邪の一種のような感覚でいたけど、その年は違った。
抗生剤を1週間飲み終わったくらいに、吐き気を催すようになった。
何日も。
病院へ行っても原因が分からず返されるのが何度かあり、その日は気持ちが悪くてトイレに駆け込んでも何も吐けない、ゲェゲェ言って辛そうだし元気もなくなってきている。
状態があまり良くなさそうで、夜だったし救急車を呼んで、長男と3人で乗り込み近所の大学病院へ運んでもらった。

病院に着くと自分で歩く事も出来ず、診察室に運び診察しようとしていたら、急にガクガク痙攣し始めた。
3年生の男の子が痙攣すると、かなり衝撃的で私はびっくりして泣き喚いてしまった。
少しして治って、子供に話しかけるが意識がはっきりしない。
怖くなって何度も話しかけるが、今度は瞳孔が徐々に開いてきたかと思うと、また痙攣する。
それを何度か繰り返し、医師も何か分からないような状況で、とりあえずてんかんの薬を投与し、眠らせた。
意識が朦朧としていたり、瞳孔が開いたりは本当に本当に怖くて、この先我が子がどうなるのかが心配過ぎて、待合室で長男の手を握って泣いた。

原因は溶連菌からの急性腎炎。
これはよくあるものらしいんだけど、当時は溶連菌にかかった後、抗生物質を飲み終わってから2週間後に尿検査をして、腎臓に菌が入ってないか診察を受けるものだが、二男は1週間程度で腎炎になってしまっていた。
吐き気や痙攣の理由は、オシッコが出ていないせいで血圧が180まで上がっていたから。
入院した当日は、私も一緒に病院に泊まる事になったが、長男は泊まれなかった。
だから、その頃よく遊んでもらっていた飲み友達に、病院まで来てもらい長男と一緒にウチで寝て貰った。
その時も丁度飲んでいたようで、酔っ払いの男3人が息子を迎えに来て焦ったけど、彼らに頼るしか無かった。
その後は、食事療法で2週間くらい入院して順調に回復していったので、安心した。
毎日、仕事後にお見舞いに行ったり、長男の夕食を作ってからお見舞いに行ったり、長男はしっかり留守番してくれて心強かった。

長男は高校1年生の時。
これもまた溶連菌。
だけど、溶連菌って普通は子供がなる病気で大きい子がなる事は少ないそう。
スポーツ推薦で高校に行っていて、熱があっても登校させるような部活だった。
だから、溶連菌になっていた事さえ気付いていなかった。
ある日、体の痛みを訴えてきて全然動けなかった。節々が痛くて動けない。
その日は前日が試合で部活が休み、コンタクトスポーツだしそのせいだと思っていた。
翌日も痛くてしょうがないと言うから、通院してから登校させる事にした。
近所の大学病院の整形外科で診て貰う。
けれど、異常なし。
炎症の数値が高いが、心配ないと。
ひと通り終わって、会計を待っていた。
すると、長男が「何で俺ここにいるの?」と話しかけてくる。
「病院だよ。」私が答えても、よくわかっていない。
長男は不思議そうにしていて、どういう経緯で今自分が病院にいるのか分からないと言う。
説明するが「何か変だ。」と言い、さっき話した事も忘れていて、明らかにおかしい。
すぐ、先程診てもらった先生に様子を伝えると先生もおかしいと気付いてくれて、一時的にベッドへ運んだ。
付き添っている間も、どんどん少し前の事を忘れていく。覚えていない状態で、「何で俺はここにいるんだ?」って何回も聞いてくる。
脳炎かもしれないと、髄液を取って検査をしたりあらゆる検査をしたんだけど、原因は溶連菌からくるリウマチ熱だった。
リウマチ熱は心膜炎を引き起こし、非常に危険な状態だった。
そのせいで、一過性健忘になっていた。
心臓の様子を見る他、首からカテーテルを通す手術をし、ICUに入った。
心臓に投薬して、心臓の動きを確認させられた時は、間違いは起きないで!と願った。
数日して異常なく治療が進んでいたので、一般病棟へ移り、1か月入院して回復した。

その入院で体重は10キロ落ち、部活に復帰しても前の様に練習に参加出来ず、高2になった長男は相当荒れてしまった。
地元の不良と付き合い、その繋がりで別の地域の不良と友達になり、不良仲間が増えていく。
ウチの子は2人とも、どんな子とも友達になれる性格。
不良だろうが真面目だろうがあまり関係ない。
その不良仲間って、小学生の頃長男をいじめてた子なんだけどね、友達になりたかったのかな?
不思議。ウチの子もその子と結局仲良くなっちゃって不思議…

私が中学の頃、親から散々不良と付き合うなと言われていたから、自分の子供には絶対それは言いたく無かったし、思ってもいなかった。
どんな子と付き合おうが、自分は自分だし、色んな子と友達になって、視野を広げれば良い。
それに、悪い事をする子の中には様々な境遇の子が居たりする。
そういう友達がいるのって、経験として悪く無いと思う。
一緒になって、悪い事をするのはあまり良くないけど、それも経験だし人様に迷惑を掛けなければ、親が助けてあげられる程度ならアリだと思っている。
そのお陰で、自分の小ささや周りの大人の大切さも知る事ができる。

その日私は、仕事帰りにお酒を飲んで帰宅して、寝ていた。
当時、長男はしょっちゅう夜出かけていたし、バイトもやってたりで、帰宅するのを待たずに寝ていた。
夜中に家のチャイムが鳴り起こされ、玄関を開けると長男が警察官と立っていた。
警察に補導され、夜中だったので警察官がウチまで送ってくれたそう。
後日、警察で話があるから2人で来る様言われ、身元引受のサインをしてその日は終わった。 
後日、長男と警察の話を聞いてみると要は無銭飲食と万引。
友達とカラオケ店にお酒を持ち込み、未成年が飲酒しているのがバレたく無くて、会計をせずお店を出たらしい。
そのお酒もスーパーで万引してきたもの。
結局、友達が捕まって自分も出頭したという話だった。
長男は色々と警察に正され、被害届などは出されなかったが、ご迷惑をおかけしたお店にお詫びに行った。
どうしてもこんな事するの?私の育て方が悪かったのか?と色々話したけど、「ママのせいじゃないと」長男は言った。
この事が高校にバレると本当にヤバくて、休部とかになる可能性が、あったから、ヒヤヒヤしたけどそこまで話は及ばなかった。

そんなこんなでこの頃、ストレスが激し過ぎて市のがん検診で引っかかった。
私が38歳、長男が高2で二男が中3の時だった。
子宮頚癌、高度異形成。
異形成には、軽度、中度、高度があって、軽度くらいなら日々の生活習慣とかストレス軽減とかでなくなる可能性はあるが、高度になると癌に移行する可能性が高い。
なので、さっさと取りましょうと2泊3日の入院手術をして子宮頸管の先を円錐状に切り取る治療をした。
切り取った細胞を再度検査すると上皮内癌と診断。
悪い部分を切り取って終わりの癌治療で、6年経った今も特に異常は無い。
同じ頃、ママ友が不正出血をほっといて子宮頸癌が進行し肺に転移、その後亡くなった方がいた。
別の同い年の友達は、子宮頸癌が体癌まで進行した時にわかり、子宮を全摘出して助かっている。私は、たまたま二男が学校から貰ってきた市の検診案内で、それにたまたま行く気になったお陰で助かった。
自覚症状は殆ど無かった。

その前まで、1人で子供を育てるのが大変だし孤独だし色々と辛くて、早く子育てを終えたらさっさと死にたいと思っていた。
私は子供達を育て上げればそれで充分に使命は果たせると考えていた。
けど、いざ自分が癌になって、なったばかりの時はネットで癌の事を調べまくって不安になるし、怖くなってやっぱりまだ死にたくないと思った。
色んなタイミングが重なったせいで、もっと自分を大切にしなきゃダメなんだって考えさせられた。

この頃、今の主人とは再婚もしてなかったし、それも考えてなかったけど、彼はとても心配してくれた。
手術の日の付き添いも子供達としてくれて、有り難かった。
出会って、8年くらい経ってたけどなんとなく時間が過ぎていて、子供達もまだ学生だし先の事は特に考えて無かった。
私は病気に敏感になり、身体に良い生活を心がけて、食生活とか身体を冷やさないとか気をつける様になった。
それが妊活になってたらしい…
手術から1年後には妊娠して、17年振りに40歳で出産する事になった。

その子ももう今年で5歳。 
昔を思うと比較にならないくらい、安心して毎日を過ごしている。
今までの人生、色んな事が盛り沢山で心が疲れていた時期もあったけど、子供達のお陰で強く生きてこれた。
病気もして、自分の事も大切にしなきゃと思った。
2人の子供達はもう成人して家を出て、自分の力で人生を歩み始めている。
次は主人と小さな可愛い末っ子の笑顔を見て、平穏に生きていきたい。
この先、また色んな事があるだろうけど成人した子供達や新しい家族がいれば何が来ても大丈夫な気がする。
人生が第何ラウンドまであるか知らないが、今のところ充実していて文句は無い。
私の第二の人生はまだ始まったばかりだ。


最後に、これを読んでくれた方達も、日々健康的に過ごせる事を祈っています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?